須川宿(三国街道・宿場町)・町並み

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須川宿(三国街道・宿場町)
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【須川宿】須川宿三国街道の宿場町で本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが設けられ、江戸時代初期には物資の集積地として市場や馬継場が立てられていました。様々な職業を生業にした家が多かった一方、宿場関係の仕事だけで生活が成り立たず殆どが半農半商、半農半宿で、須川宿自体も宿場町としての機能を何とか維持している状態が続きました。又、近くの湯宿は古くから良質の源泉が湧き出る湯治場として知られていた為、結果的に利用客を奪われる形となりかなり須川宿はかなり苦戦を強いられていたようです。本陣兼問屋は代々梅沢家が歴任し主屋は取り壊されましたが安永8年(1779)に建てられた表門(切妻、桟瓦葺、一間一戸)が旧脇本陣跡に建てられた資料館に移築され、資料館に再現された上段の間にも当時の障子・欄間・襖が移されています。特に梅沢家は長岡藩牧野家の定宿だった事から牧野家関係の資料が伝えられ資料館には、それらの古文書や三国街道、須側宿などの歴史資料が展示されています。明治時代に入り宿場制度が廃止になると農家や養蚕、煙草などに転職したようで、街道沿いには町屋建築や旅籠建築は殆ど見られず、2階や屋根裏を養蚕の作業場とした大型農家建築風の建物が目立っています。現在は残された古民家を利用した町づくりが盛んで「たくみの里」として、木工、竹細工、陶芸、わら細工など伝統的な技を伝えています。又、須川宿の景観や歴史的な意義が評価され約500mの区間が平成12年(2000)には歴史国道に指定されています。

【世直し一揆】−慶応4年(1668)、須川宿の神社の境内に「世直し大明神」が出現し、その御告げにより多くの住民が賛同し「世直し一揆」が発生したと云われています。当然、この「世直し大明神」なるものは一揆を画策した何者かという話になりますが、上州博徒という説が強いとの事。世直しの神様の御告げである事で、当時の悪政や身分制度、物価高騰、疲弊した宿場の現状を打破する為、打つ壊しや一揆をしても良いという正当性を得たという事なのかも知れません。

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