小幡陣屋(武家町)・町並み

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小幡陣屋(武家町)・町並み
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【小幡陣屋・概要】小幡陣屋群馬県甘楽町)は寛永19年(1642)、小幡藩3代藩主織田信昌によって築かれた陣屋です。織田家は、天下統一寸前まで邁進したものの、天正10年(1582)の本能寺の変で命を絶った織田信長の2男織田信雄が祖とする家柄で、豊臣秀吉との関係悪化から100万石が取り上げられ一大名へと転落し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は改易となっていました。元和元年(1615)、信雄は大坂の陣の功により大和国宇陀郡3万石、上野国甘楽郡2万石が与えられ、元和3年(1617)に4男信良がその内の上野国甘楽郡2万石を相続し小幡藩を立藩しています。当初は下仁田街道(姫街道)の宿場町で交通の要衝だった福島宿の一角(現在の上信電鉄上州福島駅付近)に陣屋を設けて藩庁としていましたが、3代信昌は寛永6年(1629)に小幡村の旧小幡氏重臣熊井戸対馬守正満の屋敷に移り、寛永19年(1642)に小幡陣屋の完成をもって陣屋に移っています(諸説有り)。陣屋内に込みこまれた大名庭園である「楽山園」は藩祖とある織田信雄が元和7年(1621)から作庭したと伝わる池泉回遊式の名園で、茶人としても著名だった信雄が趣向を凝らせたとし「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」との論語の一説から「楽山園」の名称の由来になったとも云われています。織田家は織田信長の後裔という名族であった事から国持大名の格式が認められており、陣屋本体は中規模だったものの、「楽山園」は本格的な大名庭園として作庭されたようです(信雄は藪内剣仲を招いて作庭したとも、楽山園は国指定名勝に指定)。

【小幡藩】−小幡藩織田家は信良、信昌、信久、信就、信右、信富、信邦と7代藩主を歴任しましたが、明和4年(1767)織田信邦が明和事件に関係した事を受けて、信邦は隠居、跡を継いだ信浮は高畠藩(山形県高畠町)に移封となり、表高は2万石と変わらなかったものの、実石が減じられ国主格が剥奪されました。明和事件とは、甲斐(山梨県)出身で儒学者、思想家、兵学者だった山県大弐が幕府に対して批判的な言論をした事を受けて関係者が断罪された事件で、小幡藩の家老吉田玄蕃は山県大弐の弟子として知られ、多くの小幡藩士も影響を受けていた事から、政敵だった他の家臣からその関係性を密告され藩主である信邦も連座するに至りました。変わって、小幡藩には松平忠恒が入り、以後、忠恒、忠福、忠恵、忠恕と松平家4代が藩主を歴任して明治維新に至っています。

【小幡陣屋】−小幡陣屋は大きく主郭、外郭の2郭で構成され、主郭は東西最大約230m、南北最大約230m、外郭は東西約600m、南北約760m、周囲約2900m、 面積約34ha、背後(西側)の雄川を天然の堀に見立て、主郭と外郭とは内堀と土塁によって隔てられています。主郭には藩庁と藩主居館が設けられ、外郭の手前には武家町が町割され、鍵型の道筋や水路により陣屋の防衛を担っていたと思われます。陣屋内部には60余りの施設、鎮守社(神社)2社が境内を構えていたとされ、水路となる雄川堰の外側には商家町が町割されています。嘉永元年(1848)に松平忠恵が城主格に格上げされ、形式上は「城」になりましたが城郭としての大規模な拡張は行われず、明治維新後に小幡藩が廃藩になると廃城となっています。

【武家町】−現在でも武家町には高橋家住宅(石垣は甘楽町指定文化財、庭園は甘楽町指定名勝)や松平家大奥(庭園は甘楽町指定名勝)や山田家住宅(喰い違い郭:屋敷の入口部を城郭の枡形のような形状とした形式・甘楽町指定文化財)、柴田家住宅(中小路の石垣として甘楽町指定文化財)などの武家屋敷が残され、やや離れた場所に屋敷を構える旧松浦家住宅は主屋、庭園などが残され群馬県指定史跡に指定されています。又、周辺に織田家の菩提寺だった崇福寺(織田氏七代の墓)や小幡陣屋の北東に位置し鬼門鎮守だった小幡八幡宮などがあり、雄川堰沿いには養蚕農家建造物が軒を連ね城下町らしい町並みが残されています。

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