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【赤岩集落】−赤岩集落(群馬県中之条町)の発生起源は不詳ですが、白砂川の河岸段丘上に位置している事から稲作栽培には向かず、里山を利用した様々な副業が行われ天明8年(1788)には女性の生業として麻布の生産に携わっていた事が記載されいます。江戸時代末期頃から養蚕業が始められ、明治5年(1872)に官営工場として富岡製糸工場(群馬県富岡市、世界遺産)が設置されると、さらなる養蚕の量産が求められ赤岩集落も半農だった家も養蚕業に転じて主産業として発展しました。現在残されている古民家は古いものは江戸時代末期のもので、2階や屋根裏で養蚕を行っていた事から、廊下部分が出桁造りによって外壁外部に張り出された特異な形状を持っています(建物内部に十分な作業空間を確保し、廊下などの動線は外壁外部に押し出した形式)。赤岩集落で最古の建物は宝暦14年(1764)に建てられた上の観音堂で現在では殆ど見られない茅葺屋根を保持し内部には聖観音立像、薬師如来像、不動明王像が安置されています。昭和30年以降に養蚕業は衰退し、赤岩集落も衰微しましたが、現在でも養蚕農家の家屋や民間宗教施設(神社、御堂、道祖神、石碑、石仏)、景観要素(石垣、古木)などが数多く残され平成18年(2006)に東西約1070m、南北約930m、面積約63ヘクタールが名称「中之条町六合赤岩重要伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【湯本家】−湯本家は木曽義仲の家臣の後裔を自称する旧家で、草津温泉の湯守を勤めた湯本氏とも遠戚関係と云われています。伝承によると湯本家の先祖の娘が義仲の愛妾で身重だった事から、義仲が近江(現在の滋賀県)の戦いで源頼朝に派遣された源範頼、義経軍に敗れ自害する前に、逃げるように命じられ草津温泉の近くまで落ち延びたそうです。その後、敵である源頼朝に認められた事で草津周辺の地頭に命じられ、娘の子供、即ち木曽義仲の子供が家督を継いだそうです。草津の湯本氏は地頭、湯守をしながら土豪として力を付け戦国時代には真田家の家臣として度々合戦にも参加していましたが、武田家が滅亡し真田本家も慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与し改易になると湯本氏も本来の湯守に戻り、その一族の一部が赤岩集落に流れ帰農したそうです。赤岩集落の象徴的な建物である名主湯本家住宅(中之条町指定文化財)は木造3階建、1階、2階は享和3年(1803)、3階は明治30年(1897)に建てられたもので切妻、鉄板葺、2階から上部は大壁、塗屋造り、黄色がっかった土壁が印象的で正面は前述の通り廊下が前に張り出し養蚕が行われていた特長が残されています。又、幕末には幕府の政策に異を唱え罪人として追われる立場になった蘭学者、高野長英を匿ったとの伝承が伝えられており歴史的にも興味深いものがあります(湯本家住宅の2階には長英を匿ったと伝わる「長英の間」と呼ばれている部屋があります)。
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