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【碓氷横川】−横川(群馬県安中市)の地は中山道の中で最大の関所である碓氷関所を控えていた要地でした。碓氷関所(群馬県指定史跡)は幕府の命により安中藩(藩庁:安中城)が警護、運営が任され、番頭2名(安中藩士)、平番3名(安中藩士)、同心5名(地元の郷士、手形の確認や受付など実務を担当)、中間4名(地元の郷士が2人が西門、安中藩の藩内から採用された2人が東門を担当)、箱番(中間、近隣の住民、掃除などの雑務担当)4名、女改め(西門番の妻女が担当)1名が常駐し厳しく人物改めや人物改めが行われました。その為、碓氷関所を挟んだ前後の宿場町で坂本宿と松井田宿を休息や宿泊で利用する人が多く、横川も正式な宿場町ではなかったものの茶屋本陣が設けられるなど重要視されました。茶屋本陣は正式な本陣ではありませんが、それに準じたもので、身分の高い人物しか利用出来ない式台付の玄関や上段の間が設けられ随所に格式の高い様式や意匠が採用されました。特に横川茶屋本陣では参勤交代で大名が碓氷関所を通過するにあたり、旅装から正装に着替える為に利用したとされ歴史的な意義が感じられます。横川茶屋本陣は代々横川村の名主を歴任した武井家が担い、中山道に残る数少ない茶屋本陣の遺構として貴重な事から群馬県指定史跡に指定されています。横川集落には昭和初期と思われる古民家が軒を連ねており群馬県の中山道沿いの集落の中では良好な町並みを見る事が出来ます。明治18年(1885)に開業した横川駅が出来てからの町並みとは思いますが風情ある町並みが続いています。
【碓氷峠】−古代から坂東(関東)と信濃国の国境として中央にも聞こえた存在で、日本書紀には日本武尊が東夷東征を完遂し、凱旋帰国する際に碓氷峠を越え、安房沖で入水し命を経った妻の弟橘媛を偲んだと記載されています。律令制下の官道である東山道も開削され、平安時代には略奪行為が頻発した事から碓氷関が設置され厳しく取り締まれる事となりました。中世に入ると軍事用の要地として重要視されるようになり戦国時代には武田信玄が度々碓氷峠を越えて関東進出を図っています。
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