【 概 要 】酒井忠清は寛永元年(1624)、前橋藩(厩橋藩)3代藩主酒井忠行と菊姫(松平定勝の娘)との子供として生まれました。寛永9年(1632)に3代将軍徳川家光の謁見を果たし、寛永13年(1636)に忠行の死去を受け、酒井家の家督を継ぎ前橋藩の藩主に就任しています。前橋藩は12万2千5百石ありましたが、忠清の弟である酒井忠能に上野那波郡など3郡、2万2千5百石が分知され伊勢崎藩(藩庁:伊勢崎陣屋)が立藩、前橋藩は10万石となっています。寛永15年(1638)に従五位下・河内守となり奏者番となり、その後家光付きの本丸付家臣となっています。
慶安4年(1651)に家光が死去すると、左近衛権少将となり雅楽頭に改称、承応2年(1653)には老中に、寛文4年(1664)には大老に就任しています。幕府の中で実力者だった保科正之と阿部忠秋が死去すると忠清に権力が集中するようになり、伊達騒動(寛文事件)や、越後騒動の裁定に大きな影響力を行使したとも云われ「下馬将軍」と呼ばれました。
延宝8年(1680)に大老を解任、延宝9年(1681)隠居、同年死去、享年58歳、戒名:大昌院殿従四品前羽林次将長得源成大居士、酒井家の菩提寺である龍海院に墓碑が建立されています。家督は酒井忠挙が継いでいます。
酒井忠清は前橋藩では社寺の保護に努め寛永15年(1638)と寛文7年(1667)には玉村八幡宮(群馬県玉村町)の社殿の改修、寛永19年(1642)には前年の火災で焼失した大洞赤城神社(群馬県前橋市)の社殿を再建(藩庁が置かれた前橋城の北東に位置する為、鬼門鎮守として崇敬した)、慶安2年(1649)には前橋八幡宮に対し社領の安堵状を発布、慶安2年(1649)には三夜沢赤城神社に対し社領の安堵状を発布、万治2年(1659)には長昌寺の寺領三反歩を寄進、慈眼寺の境内に生える桜を愛で、自分の位階に因み「少将桜」と名付けたと伝えられています。
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