玉村町: 火雷神社

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概要・歴史・観光・見所

火雷神社(玉村町)概要:  火雷神社は群馬県佐波郡玉村町大字下之宮甲に鎮座している神社です。火雷神社の創建は景行天皇(第12代天皇・在位:西暦71〜130年)の御代に、御諸別王(崇神天皇四世孫)が葛木坐火雷の分霊を勧請したのが始まりとされます(別説では崇神天皇元年:紀元前97年)。

古くから中央にも聞こえた存在で、平安時代に成立した「日本後紀」によると延暦15年(796)に官社となり、延長4年(926)にまとめられた延喜式神名帳には式内小社に列しています。上野国の著名な神社を列記した「上野国神名帳」には「従一位火雷大明神」、南北朝時代に成立した「神道集」では上野国十二社の八ノ宮と記されています。

火雷神社は歴代領主にも崇敬され当時の領主那波廣純は延久4年(1072)に社殿を造営、その後那波氏が滅亡しましたが、建久2年(1191)大江那波氏が領主になると代々の崇敬社として社領四町歩の寄進や安堵が行われ、康永2年(1343)に社殿を再建、貞治3年(1364)には社殿を改修しています。

火雷神社は大江那波氏の庇護のもと広大の社地を有し四方に大鳥居を構えていたそうですが天正年間(1573〜1593年)に那波氏が滅亡すると次第に衰退しました。古くから神仏習合し、本地仏として虚空蔵菩薩像が祭られていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治5年(1872)に郷社に列しています。

祭神:火雷神。配祀神:保食命、菅原道真命、那波八郎命、火産霊命、大物主命、健御名方命、誉田別命、素盞鳴尊、高淤賀美命、宇迦之御魂命、大日?貴命、少彦名命。

現在の火雷神社社殿は慶長年間(1596〜1610年)以降に造営されたものを後に何度か改修したもので、本殿は三間社流れ造り、銅板葺き、外壁は真壁造り板張り、建物全体が極彩色で彩られ、細部には精巧な彫刻が施されています。拝殿は明治7年(1874)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入、桁行3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り。神楽殿は入母屋、鉄板葺き、妻入、外壁正面3方吹き放し。

伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源にもなっています。例祭は案内板によると「 ・・・(前略) 麦蒔ゴジンジ(御神事)−火雷神社に伝わる祭りで、貞観四年(八六二)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦十月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面にシメ縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、シメ縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(馬がいた時は鈴もはずした)であり、シメ縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。 」とあります。麦蒔御神事は古式を伝える神事として貴重な事から玉村町指定重要無形民俗文化財に指定されています。

火雷神社:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


火雷神社:ストリートビュー

火雷神社:社殿・境内・写真

火雷神社
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独り言
幾ら式内社といっても千年以上隆盛しているのは極めて大変な事で、祠程度になっている神社も少なくはありません。火雷神社も往時は栄えていたと思いますが、参道の両脇は民地になっているようで少し寂しい印象を受けます。社殿の周囲はゆとりがあり、本殿は極彩色とそれに付随する彫刻、隔て板の透かし彫りなど手の込んだ意匠となっています。境内には複数の石造の祠が集められ、周辺の総社的な存在だったのかも知れません。


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