白井宿: 白井城

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概要・歴史・観光・見所
白井城(渋川市)概要: 白井城の築城年代は不詳ですが鎌倉時代の康元元年(1258)、上野国守護上杉家の家臣長尾景煕が白井の地を与えられ居城として築城されたと推定されています。室町時代に入ると山内上杉家の有力武将として台頭し特に長尾景仲は信任が篤く家宰を務める一方で上野国・武蔵国の守護代も兼任し大きな影響力を持ちました。白井城もこの頃、大規模に拡張したされ領内には雙林寺(群馬県渋川市)、空恵寺(群馬県渋川市)の創建や学問所を開設するなど後に白井文化圏などとも言われ周辺地域の軍事的、政治的、経済的な拠点としました。戦国時代に入ると主家である山内上杉家の勢力も衰え、脆弱な基盤となった上野国は上杉謙信や武田信玄、小田原北条氏といった大大名の勢力拡大の格好の的となり何度も白井城を巡り攻防戦が繰り広げられました。当時の関東管領上杉憲政が北条氏に破れ事実上没落すると、当時の城主長尾憲景は関東管領の名跡を継いだ上杉謙信に与しますが、元亀2年(1572)武田方の真田昌幸の侵攻により白井城は落城、天正10年(1582)に武田家が滅びると、跡を継いだ長尾輝景が織田家家臣滝川一益に取り入り再び白井城の城主として復権しています。同年、織田信長が本能寺の変で倒れると滝川一益が上野国から撤退、変わって北条氏に従う事となり、天正18年(1590)の小田原の役では前田利家・上杉景勝等に侵攻され白井城は落城、白井長尾氏も没落します(越後の上杉家を頼り家臣として仕えた)。

【 白井藩の藩庁 】−北条氏が滅びると徳川家康が関東に移封となり白井城には徳川家の重臣である本多康重が2万石で入ります。慶長5年(1600)、康重は徳川秀忠に従い中山道を西上、上田城(長野県上田市)攻めにも参加しています。慶長6年(1601)に岡崎藩(愛知県岡崎市)に移封になると代わって松平康長が入封し白井藩を立藩、白井城には藩庁が設けられ領内の政治、軍事の中心となります。その後は、短期間で井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と短期間で何度も藩主が変わり元和9年(1623)本多紀貞に嗣子がなく病死すると白井藩は廃藩、白井城も廃城となりました。

【 白井城の縄張り 】−白井城は梯郭式の平城ですが本丸背後が吾妻川で出来た断崖を利用した自然の要害の地で、又、利根川とも合流する交通の要衝でした。城域は東西800m、南北1200mと広大で本丸の北方には二の丸、三の丸と続きそれぞれが深い空掘りで分断され、さらに外側には出城的な存在の北廓、金毘羅廓が配されました。南東側にはささ郭、南郭、新郭が防衛ラインを築き、城下町(白井宿)全体を総廓で囲む構造になっていました。現在白井城跡は山林と農地になっていますが、郭や空掘り、土塁、櫓台(城山不動尊)といった遺構がかなり明瞭に残り本丸虎口の枡形など一部石垣も見られます。平成16年(2004)には本丸部分が渋川市指定史跡に指定されています。

白井城:写真

本丸枡形・石垣
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本丸・石碑 本丸 本丸・土塁 二の丸
空掘 三の丸 空掘 北曲輪・櫓台
土塁 三日月堀 三日月堀 空掘


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