前橋城(厩橋城)

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概要・歴史・観光・見所
前橋城(厩橋城)概要: 前橋城の築城は文明年間(1469〜1487年)長尾忠房が石倉の地に築いたのが始まりとされます。当初は石倉城と称し、利根川を城内に引き込む要害堅固の平城でしたが、水害に悩まされ天文3年(1534)に壊滅的な被害を受けた為、石倉城の三ノ丸を用いて新たに厩橋城(前橋城)を築城しています。この地は小田原北条氏、上杉氏、武田氏の領土に近接した軍事的拠点として重要視され厩橋城を巡る攻防戦が何度と無く行われその都度城主が入れ替わっています。永禄11年(1578)には厩橋城で上杉謙信と北条氏康が会談が行われ一時的な和議が成立しています。その後も城主が混沌とし、武田氏が滅亡した事で当地方に進出を果たした織田家家臣滝川一益の持ち城となり、本能寺の変後一益が退却すると小田原北条氏が支配します。天正18年(1590)の小田原の役で豊臣方の浅野長政を主力とする軍勢を前に落城しています。その後、関東を領した徳川家康の家臣平岩親吉が3万3千石で入り、慶長6年(1601)からは3万1千石で酒井重忠が入封しています。酒井氏は厩橋城を近世城郭として大改修し5代忠挙の時代に前橋城と改称したと言われています。寛延2年(1749)酒井氏に代わり松平朝矩が15万石で前橋城に入りますが明和4年(1767)に再び大洪水にあい大きな被害を受けそのまま廃城となりました(朝矩は幕府の許可を得て本城を前橋城から川越城に移し、前橋領は川越藩の代官陣屋支配としました)。幕末期の文久3年(1863)に松平直克が再び前橋藩を立藩し、慶応3年(1867)に前橋城が完成しますが、明治維新後に廃城しています(利根川の河川改修などで氾濫の頻度が減少した事や、養蚕などで前橋周辺の重要性が増大した事などから再び前橋城を整備し本城としました)。城は本丸を中心に二の丸、三の丸、乾丸、南曲輪、北曲輪、外曲輪といった主要な郭があり南東方向には3重の水堀、北西方向には広大な利根川を天然の外掘に見立て、主要な入口は馬出風に前に突き出し水堀で囲んでいました。幕末の築城だった事から西洋風城郭の手法を取り入れたと思われ本丸御殿の望楼や、砲台、幾何学的な縄張りなどの特徴がありました。現在の前橋城は本丸を中心に公共施設や公園など市街化の波でほとんどの遺構が破棄されましたが、大型の土塁の一部や車橋門跡などが残り前橋市指定史跡に指定されています。又、前橋城は関東七名城(川越城・忍城・前橋城・金山城・唐沢山城・宇都宮城・多気城又は太田城)の一つに数えられています。
前橋城
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