反町館

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概要・歴史・観光・見所

反町館(太田市)概要: 反町館は群馬県太田市新田反町町に位置している城郭です。反町館は鎌倉時代末期の元徳年間(1330年頃)に新田義貞によって築城されたと伝えられています。

当初の反町館は新田義貞の居館として機能し、主郭跡に残されている「不鳴の池」は軍議を開いている際に、蛙の声が余りにも五月蠅く話に成らなかった為、義貞自ら蛙の声を静めたと伝えられています。南北朝の動乱期は新田義貞は南朝方の有力武将として全国を転戦した為、家臣である大舘氏明が城代として反町館を守ったとされます。

一方、氏明は建武3年(1336)に義貞が病床の際に、新田軍を率いて播磨(兵庫県南西部)の赤松円心攻めや湊川の戦いなどを行っています。大舘氏明が伊予・世田城(現在の愛媛県)で没すると、義貞の2男である新田義興が反町館の城主になったとされますが、正平13年(1358)に多摩川の矢口の渡しで謀殺され享年28歳という若さで没しています。

反町館は戦国時代に3重の堀を構える城郭に拡張され横瀬氏(由良氏)の本城である金山城の支城として機能し、横瀬氏(由良氏)の家臣野内修理亮や矢内豊後守が城代として配されたとされます。天正12年(1584)に小田原北条氏は金山城攻略の前にここを占拠し、北条氏邦が本拠としましたが天正18年(1590)の小田原の役で北条氏が滅ぶと反町館は廃城となります。

反町館の範囲は南側が約120m、北側が約73m、南北約115m、平面構成は凸形、10〜20m幅の掘と高さ4〜6mの土塁で囲われ、東南の隅と西側には門が設けられていました。

現在は本丸を中心に土塁や水堀の形状が良く残り本丸は照明寺(反町薬師)の境内となっています。反町館は太田市を代表する中世の居館跡として昭和33年(1958)群馬県指定史跡に指定され、新田義貞縁の史跡(新田荘遺跡)として平成12年(2000)に国指定史跡に指定されています。

反町館:上空画像


反町館:ストリートビュー

反町館:写真

反町館
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