正法寺(太田市)概要: 脇屋山正法寺は群馬県太田市脇屋町に境内を構えている高野山真言宗の寺院です。正法寺の創建は平安時代の延喜年間(900〜922年)、源経基(経基流清和源氏の初代)が聖宝(京都の醍醐寺を開山)を招いて開山したのが始まりとされます。元暦年間(1184〜1185年)に新田義重が境内の整備を行い、元弘年間(1331〜1334年)には新田義貞の弟である脇屋義助が寺領と大般若経600巻を寄進し自らの菩提寺としています。
当初は萬明山正徳院聖宝寺と称していましたが、脇屋義助の戒名「正法寺殿傑山宗栄大居士」から正法寺に寺号を改称、又、境内は脇屋義助の館があったとされる大字脇屋(観音免:跡地からは層塔が発掘され正法寺の境内に移されています。)から江戸時代の火災で堂宇が焼失後に現在地に移されました。
現在の正法寺仁王門は貞享2年(1685)に建立され享和3年(1803)に改修されたもので、三間一戸の八脚楼門、桁行5間(約9m)、梁間4間(約5.4m)、入母屋、桟瓦葺き、2層目に高欄を廻し、建物全体が朱色に彩られています。
1層目の両側に安置している仁王像は貞享2年(1685)に京都の大仏師左京入道勅法眼康祐が制作した像で、阿吽共に像高2.6m、彩色、仁王門と共に昭和54年(1979)に太田市指定重要文化財に指定されています。正法寺の寺宝である聖観音像(秘仏:12年に1度、午年の4月18日御開帳)は鎌倉時代初期に制作されたと推定される総高155p、ヒノキ材、寄木造りの仏像で昭和29年(1954)に群馬県指定重要文化財に指定されています。
本堂は旧観音堂として建てられもので、入母屋、銅板葺、妻入、桁行4間、正面軒唐破風向拝付。又、境内には脇屋義助の遺髪をおさめた遺髪塚などの史跡が残っています。東上州三十三観音霊場第19番札所。上州新四国八十八ヶ所第57番札所。山号:脇屋山。宗派:高野山真言宗。本尊:聖観世音菩薩。
【 正法寺菩提者:脇屋義助 】-正法寺を菩提寺とする脇屋義助は新田氏本宗家の7代当主新田朝氏の次男として生まれ、兄は鎌倉幕府を倒幕した新田義貞、居館が上野国新田荘脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)にあった事から脇屋氏を称しました。当初は兄義貞と共に幕府側として行動していましたが、幕府からの追税を拒否し使者を殺害したことから関係が悪化し、所領の一部が没収され、さらに新田荘への討伐が計画されました。
義助はこのような事態を打開する為、倒幕を発案し一族の承認を得た事から元弘3年(1333)、義貞を筆頭に新田荘生品神社にて挙兵し倒幕を果しました。義助は義貞の補佐役に徹していたものの、倒幕後は正五位下(後に正五位上、従四位下)に列し、左衛門佐や駿河国守護職などの要職に付いています。
延元3年(1338)、義貞が越前国藤島の灯明寺畷で行われた藤島の戦いで討死すると、事実上南朝方の総大将的な立場となり北朝方と対峙し越前黒丸城などを攻略しましたが興国2年(1341)には杣山城が落城し北陸地方の南朝方の勢力は著しく後退しています。興国3年(1342)、四国に渡り南朝の再起を図りましたが、発病し伊予国府で死去、享年38歳、戒名「正法寺殿傑山宗栄大居士」。
廟所は愛媛県今治市の金光山最勝院国分寺(脇屋義助廟堂:現在ものは寛文9年:1669年、今治藩士町野政貞らが再建)、鳥取県倉吉市打吹の大蓮寺(脇屋義助の墓)、群馬県太田市の安養寺(脇屋義助の追善板碑)、そして菩提寺とされる群馬県太田市の正法寺(脇屋義助の遺髪塚)とされます。
正法寺:上空画像
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