大光院(太田市)概要: 義重山新田寺大光院は群馬県太田市金山町に境内を構える浄土宗の寺院です。大光院の創建は江戸時代初期の慶長18年(1613)、初代将軍徳川家康が祖先とされる新田義重(源義家の孫・徳川家の改名前の松平家は新田家から出た事になっています。征夷大将軍は源氏の棟梁との意味合いが強く、その地位に就くため、半ば強引に家系図を改ざんした説もあります。)を追善供養する為に呑龍上人(武蔵国埼玉郡一の割村出身、増上寺観智国師四哲の1人、大光院で入寂。)を招いて開山したのが始まりと伝えられています。
寺号は新田義重の戒名「大光院殿方西大禅定門」から「義重山新田寺大光院」と号し、徳川家、幕府から庇護されて江戸時代を通して御朱印300石が与えられ関東十八檀林(増上寺・伝通院・霊巌寺・霊山寺・幡随院・蓮馨寺・勝願寺・大善寺・浄国寺・光明寺・弘経寺・東漸寺・大巌寺・弘経寺・大光院・善導寺・常福寺・大念寺)の一寺となるなど寺運が隆盛しました。
特に呑龍上人は身分を問わず説法を解いた事から全国から数多くの学僧が大光院に集まると同時に身分の低い農民や町民なども集まり、中でも多くの子供の貧困者を集め子弟として施しを与えたことで「子育て呑龍」と呼ばれ子育てに御利益がある寺院として信仰されるようになりました。
大光院(境内の正面にある山門は元和元年(1615)に建立されたもので、当初は中門と呼ばれていましたが上棟した日が大坂城(大阪府大阪市)が落城した日と重なる事から吉祥門と徳川家康自らが名付けたそうです。大光院山門は三間三戸、切妻、桟瓦葺き、八脚単層門、桁行3間、張間2間、一部改修された部分があるものの多くが創建当時の姿を留める貴重なもので、昭和47年(1972)に太田市指定重要文化財に指定されています。
大光院本堂(慶長18年:1616年建立、入母屋、本瓦葺、平入、桁行10間、梁間8間、正面3間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ)も大正14年(1925)に大改修されたものの構造部や内陣などが創建当時のままとされ、方丈や庫裏も歴史を感じさせてくれます。
開山堂は昭和9年(1934)に造営されたもので、鉄筋コンクリート造平屋建て、入母屋、本瓦葺き、妻入り、3間向拝付き、内部には大光院を開山した子育呑龍上人が自ら彫刻したと伝わる尊像が安置されています。
本堂と開山堂の前に生える黒松は推定樹齢700年とされる古木で、その姿から「臥龍松」の異名を持ち、江戸時代に編纂された「義重山風土見聞録」や「北国見聞記」にも紹介されています。東上州三十三観音特別札所。太田七福神の弁財天。山号:義重山。寺号:新田寺。院号:大光院。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。
【 大光院菩提者:新田義重 】-新田義重は源義家の3男の源義国の長男とされ、上野国新田郡西南部の「空閑の郷々」を開発し、それを保元2年(1157)藤原忠雅家(平家方)に寄進、これで藤原家の荘園として新田荘が成立し義重は下司職として新田性を名乗った事から新田氏の祖と言われています。
子供達も周辺地域の開発に尽力し新田宗家を継いだ義兼、里見家を興した義俊、山名家を興した義範、世良田家を興した義季、額戸家を興した経義などの新田一族を輩出しています。源頼朝とは微妙な関係であった事から帰順には時間がかかり、初期の頃は頼朝の反感を買い信頼関係と程遠かったとされます。
その為、弟である義康が興した足利家は本来格下にも係わらず逸早く頼朝に帰参した事から重用され、新田家は後塵を拝する事になりました。義重はその後出家し「上西入道」と称し、建仁2年(1202)に死去、享年89歳、戒名「大光院殿方西大禅定門」。
江戸幕府を開いた徳川家康を輩出した松平家の祖は義重の4男、世良田義季=得川義季=徳河三郎義秀と後年徳川家が自称した事から、慶長16年(1611)には家康より鎮守府将軍に任官され、慶長18年(1613)には義重の追善供養の為、呑龍上人を招いて大光院を創建しています。
ただし、現在では家康が領内経営や周辺大名との外交、朝廷との関係を良好する為に源氏の血族である新田家の後裔である事に固執し系図を意図的に改竄したという説が多いようです。大光院(太田市)の境内には義重の墓碑が建立されています。
大光院:上空画像
八脚門を簡単に説明した動画
|