横堀宿(渋川市)概要: 三国街道は中山道の高崎宿から寺泊まで30宿あり横堀宿は高崎宿から5宿目の宿場町でした。江戸時代初期の慶長18年(1613)に宿場町が町割りされ中宿と下宿が主に宿駅として機能していました。
本陣兼問屋は飯塚家が代々世襲し、升屋が補完、脇本陣には扇屋がその任にあたりっています。現在、飯塚家の屋敷は佐藤家が所有していますが、間口が広く、本棟造の主屋や高い石垣など当時の繁栄が窺えます。
※ 現在の佐藤家当主からの連絡により以下のような情報を追加します。
佐藤家の祖は奥州藤原家の有力家臣だった佐藤家(源義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟を輩出)の一族でしたが、文治5年(1189)に発生した奥州合戦で奥州藤原氏は源頼朝が指揮する鎌倉軍の侵攻を受け没落した為、当地に落ち延び土着したそうです。
天正18年(1590)に徳川家康に下型東三河国衆の一人である牧野康成が2万石で大胡領に入部し大胡藩を立藩すると牧野家に従い大坂夏の陣にも従軍、その功績により三国街道横堀宿本陣職を与えられてます。
この際、徳川家に謝意と敬意を表して「佐藤」姓から「飯塚」姓に改めています。元和2年(1616)に牧野忠成は越後国長峰藩に5万石で加増移封となりましたが、飯塚家はそれには従わず、引き続き横堀宿本陣を歴任しています。
明治維新後に再び「佐藤」姓に復姓、すなわち、「佐藤家」と「飯塚家」は同じ家との事です。
伊能忠敬は享和3年(1803)に行われた第4次測量で三国街道を利用し11月15日(旧暦10月2日)に横堀宿の本陣問屋勘兵衛家で宿泊した事が記録に残っています。
三国街道は長岡藩や与板藩、村松藩などの参勤交代のルートだった事もあり29軒の宿泊所があったそうで、定助合村には白井、吹屋、上白井、中郷、小野子があたっていました。
横堀宿(渋川市)は山間に開設されたこともあり各家屋は石垣の上に建てられ、2間幅程度の街道の中心に水路が設けられ、新しい宿場町である為、他の宿と比べると敷地の間口が広く奥行きが長いとされます。明治維新以降は主要街道から外れ、道路の拡幅などから古い町並みはあまり残っていませんが、石碑などは多く散見出来、当時の繁栄を偲ぶことが出来ます。
横堀宿の鎮守である大山祇神社の創建は不詳ですが、以前は十二神社と称していた事から、十二柱の神々が祭られていたと思われる神社で、本殿背後の大藤は樹齢は約250年、目通り約3.2m、根元の周囲4.3m、昭和27年(1952)に群馬県指定天然記念物に指定されています。本殿は江戸時代中期の寛保3年(1743)に造営されたもので歴史が感じられます。
三国街道:宿場町・再生リスト
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