泰寧寺

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概要・歴史・観光・見所
泰寧寺(みなかみ町)概要: 泉峰山泰寧寺は群馬県利根郡みなかみ町須川、泰寧寺:参道正面に設けられた寺号標と石仏と石造多層塔旧三国街道の宿場町である須川宿から見ると山沿いに境内を構えている曹洞宗の寺院です。泰寧寺の創建は鎌倉時代末期の延慶2年(1309)に真改が開山したのが始まりとされ、その後、須川領の領主である細川伊豫守源綱利が開基となり、石屋真梁大和尚を招いて改めて開山したと伝えられています。石屋真梁は現在の鹿児島県出身で南北朝から室町時代の曹洞宗の高僧、細川頼之(第2代室町幕府管領)と関係が深い通幻寂霊に師事していた関係で、細川一族と思われる綱利とも面識があったかも知れません。

泰寧寺は一時衰退しますが室町時代後期の天文6年(1537)洞庵文曹和尚(三峰山玉泉寺8代・旧月夜野町)が中興開山し天台宗寺院から曹洞宗に改め、25世大愚和尚の代に遠州可睡斎(静岡県袋井市:遠州三山・法多山尊永寺・萬松山可睡斎・医王山油山寺)から分霊(本尊の秋葉三尺坊大権現は火防に御利益)を勧請し、家内安全、災難除け、所願成就に御利益があるとして信仰を広めました。江戸時代初期の寛永10年(1633)に学庵長芸和尚の代に現在地に移し境内を整備、現在の基礎が固められました。地元地域にも開かれた存在で、江戸時代には境内を寺子屋として開放し、明治6年(1873)には学制制度発布に伴い須川小学校の校舎として利用されています。

【 泰寧寺の堂宇 】-現在の泰寧寺本堂は江戸時代後期の寛永7年(1795)に再建されたもので、泰寧寺参道石段から見る本堂正面木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行7間、梁間4間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、内陣の欄間は安土桃山時代に製作、「松に孔雀」、「桐に鳳凰」の2面透かし彫りされ極彩色で彩れられ、その内部には同じく安土桃山時代に建立された須弥壇(基壇部分には牡丹と唐獅子の透かし彫りが施され極彩色で着色)が置かれ本尊である聖観音菩薩像が安置されています。泰寧寺山門は江戸時代中期の安永4年(1775)に建立されたもので八脚二重楼門形式、入母屋、銅板葺き、三間三戸、桁行3間、張間2間、外壁は真壁造板張り、上層部は左右には花頭窓、高欄付き、内部には釈迦三尊像や十六羅漢像などが安置、下層部天井には「龍」や「鳳凰」、「天女」など6面絵画が描かれ、細部には「龍」、「獅子」など精巧な彫刻が施されています。泰寧寺の本堂の欄間と須弥檀は昭和26年(1951)、山門(二重楼門)は昭和28年(1954)にそれぞれ貴重な事から群馬県指定重要文化財に指定されています。東国花の寺百ヶ寺群馬九番。山号:泉峰山。宗派:曹洞宗。本尊:聖観音菩薩。

【 泰寧寺と押野用水 】-泰寧寺の境内には江戸時代に沼田藩によって整備された泰寧寺の境内を横切っている押野用水押野用水が残されています。案内板によると「 泰寧寺山門前に用水が引かれてあり、大門に用水紀功碑がある。起工は寛文3年で真田伊賀守(沼田城主)時代である。雨見山と高畠山の間の渓流(新治村入須川)を引き入れ、標高約800メートルの辺を高畠山の中腹をまいて約6キロメートルに及んで用水路を作った。これにより須川平の開田は急速に進んだ。(註)寛文3年(西1663)徳川幕府4代将軍家綱のとき 」とあります。真田伊賀守信利は悪政を行い天和元年(1681)に改易になった事で知られていますが、領内整備にも尽力した事績と言えるのかも知れません。

泰寧寺(本堂・山門)写真

泰寧寺参道石畳みから見た山門(二重楼門)
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泰寧寺参道を横切る小川とそこに架かる小橋 泰寧寺参道石段から見上げる山門と石垣 泰寧寺山門の天井に描かれた龍の天井画 泰寧寺山門に施された獅子の彫刻
泰寧寺境内に植樹された植栽越に見える本堂 泰寧寺境内に設けられた鐘楼と梵鐘 泰寧寺鐘楼越に見える庫裏 泰寧寺参道高台から見下ろした境内


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