【 概 要 】真田信利は寛政12年(1635)、当事の松代藩主真田信之の庶長子である信吉の次男として生まれています。当事は信之が健在だった為、松代藩(長野県長野市松代町)は信之、沼田領(群馬県沼田市)3万石分は信吉が統治していましたが、寛文11年(1634)父親に先立ち信吉が死去した為、長男である熊之助が相続しました。
しかし、その熊之助も寛永15年(1638)に死去した事から信吉の弟である真田信政が沼田領主となり信吉の次男である信利は5千石が分知されています。明暦2年(1656)、信之が隠居し為、松代藩は真田信政が相続しましたが明暦4年(1658)、その信政も死去してしまいます。
その際、松代藩主は信政の子供である幸道が指名された為、本来、庶長子である信吉の血統が相続する事が本筋であると信利が異を唱えます。この騒動は幕府内部にまで及ぶ大規模なものになりましたが幕命により松代藩主には幸道、改めて沼田藩(藩庁:沼田城)を立藩させ、その初代藩主に信利に定めました。
一旦、この騒動は治まりましたが、信利はとっては到底受け入れられない裁定であった事から松代藩に対抗する為、表高3万石に対して実石14万4千石(実際の実石は6万石程度)として幕府に虚偽の報告をしました。その為、沼田藩にとっては過度な土木工事や格式に見合う調度品が求められ、それらを賄う為に領内では大増税が行われました。
土木工事は無理な計画と自然災害が重なり大幅に工期が送れ、天和元年(1681)には領内で大一揆が発生、これを見た幕府は信利を改易し沼田藩を廃藩としました。
信利は山形藩(山形県山形市)の藩主奥平家に預けられ貞享5年(1688)、奥平家の移封先である宇都宮藩(栃木県宇都宮市)で死去、享年54歳。伝承では菩提は沼田藩主時代に信仰していた迦葉山弥勒寺(群馬県沼田市)に運ばれ埋葬されたと伝えられています。迦葉山弥勒寺の境内には真田信利の墓碑と伝わる五輪塔が建立されています。
真田信利の沼田藩での実績としては寛文2年(1662)には父親である真田信吉の霊廟を迦葉山弥勒寺の境内に造営しています。
寛文3年(1663)には三光院に安置されていた沼田氏縁の十一面観世音菩薩を自らの祈願所である常楽院に遷したいと広海住職に相談したものの、拒否された事から出来心で例祭の邪魔をしてしまいました。この行為を十一面観世音菩薩は許さず、沼田城の城内には疫病が蔓延した為、信利は再び広海住職と話し合い寛文4年(1664)に観音堂を造営し石灯籠2基を奉納、さらに正室も白馬の木像を2躯奉納しています。
沼田城を修復した際には常福寺に寺地を寄進し、寺領100石を寄進、自ら中興開基となっています。
寛文3年(1663)には沼田城の鬼門鎮護として月夜野に境内を構えていた信利の祈願所である常楽院法盛寺を幕岩城跡に遷し、本尊となる千手観世音菩薩坐像(真田観音)を寄進しています。同年には雨見山と高畠山の間の渓流を押野用水として領内(泰寧寺)に引き込み新田開発を行っています。同年には富士浅間神社(群馬県利根郡みなかみ町谷川)の社殿を造営(みなかみ町指定文化財)しています。
寛文6年(1666)には舒林寺を現在地に境内を遷し、跡地には信吉の菩提寺天桂寺を遷し堂宇を造営しています。延宝7年(1679)には沢渡温泉(群馬県中之条町)に湯治を行い、迦葉山では山狩が催されています。
|