茂左衛門地蔵尊(みなかみ町)概要: 茂左衛門地蔵尊は群馬県利根郡みなかみ町月夜野に境内を構えています。案内板によると「 今から凡そ300余年前のこと。上州沼田領3万石の城主真田伊賀守信直は華美放漫の政治をした為に藩の財政は窮乏したのでこれが立直しの為領民の苦境をも考えず、寛文年間再度に亘り無理な検地をして3万石を約5倍にあたる14万4千余石とし、その上、凶年続きで困苦のどん底にあえいでいる百姓から苛酷な取立てを行い滞納者には残酷な刑罰に処した。この惨状を見るにしのびず利根、吾妻、勢多の3郡177ヶ村の領民のために一命を捨てる覚悟で立ち上がったのが月夜野の百姓茂左衛門である。茂左衛門は姓を杉木と言い義気に富んだ中流の百姓であった。天和元年(1681)正月、領主真田伊賀守の非行、領民の惨状をしたためた訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功した。時の将軍(家綱)は取り調べの結果、罪状明確なので伊賀守は改易沼田城破却の運命となった。茂左衛門は本望を遂げたのを見届けたのでひそかに郷里に帰り妻に別れを告げ自首を決意して江戸へ向かうところを小袖坂で幕吏に捕らえられ江戸送りとなり、取調べの上所成敗となり天和2年12月5日月夜野竹の下河原で磔刑に処せられた。領民はその死をいたみ刑場あとに地蔵尊を建て供養を続けその遺徳をしのびきたが大正11年旧領地をはじめ各地の篤志家からの浄財によってここに茂左衛門を祀る千日堂が建立されたのである。 茂左衛門地蔵尊千日堂運営委員会 」とあります。
茂左衛門地蔵尊の境内には「川上と この川下や 月の友」の芭蕉句、近くには茂左衛門刑場跡があります。又、複雑な経緯から真田家宗家である松代藩の藩主の家督争いに敗れた真田信直(信利)は失意の内に沼田藩の経営を行ったと見られ、どこまで真実かは不詳ですが散々な理由が挙げられ改易となり、最後は配流先の宇都宮(栃木県宇都宮市)で死没し、迦葉山弥勒寺(群馬県沼田市)に葬られたと伝えられています。
境内には猿ヶ京関所の関守だった片野文志が書した「川上とこの川下や月の友」の芭蕉句碑が建立されています。又、菩提寺である嶽林寺には茂左衛門と同じく処刑された妻の位牌が安置されています。
茂左衛門地蔵尊:上空画像
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