【 概 要 】世良田家は新田家惣領家である新田義重の4男義季が世良田郷を与えられ地頭職に就くと、地名から世良田を名乗ったのが始まりとされます。義季は世良田郷の開発に尽力し、菩提寺となる長楽寺を創建しています。跡を継いだ頼氏も引き続き世良田郷の開発を行ない、新田一族の中でも重要視されるようになり惣領家の新田政義が幕府から惣領職を剥奪されると頼氏が引継ぎました。
頼氏は当事の鎌倉幕府執権の北条経時の側近として幕府の重役を歴任しましたが文永年(1272)、北条家同士の内乱に連座した思われ佐渡島に流罪となっています。頼氏失脚の後の世良田家は衰微しましたが、鎌倉幕府の統幕運動では惣領家の新田義貞と行動を共にし貞国は討死した事になっています。
南北朝時代では新田家と共に南朝方に与し、浪合の合戦で親季が討死した後は明確な資料が無い為に没落したと思われます。
現在では親季を継いだ親氏から存在が明確である松平信光までの系譜は、徳川家の正当性を強調する為に創作されたと考えられていますが、当事は徳川家康が源氏の正等な後継者である事が必須だった事から世良田家の菩提寺である長楽寺(太田市)は祖先縁の寺院として大変重要視され、天正18年(1590)に徳川家康が関東に移封になり当地の領主になると、天海大僧正を住職に就任させ再興させました。
天海は長楽寺を臨済宗から天台宗に改宗、徳川家の力を借りて末寺700余を擁する大寺院として発展させました。江戸時代に入ると引き続き幕府が庇護を行い寺運が隆盛しています。
長楽寺の隣地には徳川家康を祭る世良田東照宮(太田市)が寛永21年(1644)に3代将軍徳川家光の命により創建されています。その際、2代将軍徳川秀忠が日光東照宮の社殿として造営した建物が世良田東照宮の社殿として移築転用されています。
長楽寺は世良田東照宮の別当寺院として祭祀を司り寺領200石が安堵され、長楽寺と世良田東照宮が壮麗だった事から「お江戸見たけりゃ 世良田にござれ 世良田七宿七小路 お江戸勝りの長楽寺 池に反り橋 下り松」と唄われました。
世良田東照宮の本殿(附:厨子及び須弥壇)、唐門、拝殿、附:鉄燈籠(元和4年:1618年)及び棟札7枚は国指定重要文化財に指定されています。又、長楽寺、世良田東照宮の境内全域は「新田荘遺跡」として国指定史跡に指定されています。
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