永井宿

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概要・歴史・観光・見所

永井宿(みなかみ町)概要: 永井集落(群馬県利根郡みなかみ町)は鎌倉時代初期の寛治年間(1089〜1092年)に奥州阿倍家家臣、長井左門兼政が開いた村で当初は長井村と呼ばれたが後に永井となったとも云われています(安倍頼時の家臣長井左門兼政が重篤となり当地で病死した事から兼政の家臣が長井という地名を付けたとの説もあります)。

戦国時代に春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信が関東侵攻の為、三国峠を開削すると次第に重要性を帯びるようになりました。永井宿の大欅(推定樹齢450年、目通り幹周4.7m)は、永井宿「泉屋」の初代笛木九助が永禄2年(1559)に家屋を建てた際に屋敷の鎮守である稲荷社の御神木として植えたと伝えられている事から、少なくとも上杉謙信が三国峠を開削した前後から永井集落は宿場町的な存在だった事が窺えます。

【 三国街道:宿場町 】−江戸時代に入り三国街道が本格的に開削されると宿場町として永井宿が整備、本陣1軒(笛木屋)、脇本陣1軒(つるや)、家屋25軒、元禄2年(1689)には米問屋場も設置され飛躍的に発展します。三国街道の宿場町で難所で街道の名称の由来にもなった三国峠を控えている事から多くの旅人や商人などが利用し、特に越後で産出された米が上野に搬出する場合は米問屋場として永井宿で吟味された上で売買された事から商業的にも重要視されました。

宿場の大部分の住民は半農半宿又は半農半商で、今でいう専業農家の家は少なく何らかの形で宿場に関わって生活をいて、特に本陣職を担った笛木家(跡地は、みなかみ町指定史跡)は問屋を兼任した他、豪商という一面もあり、越後、上野両国の物資が行き来する中、中継ぎする事で莫大な利益を得て広大な屋敷を持っていたそうです。

特に本陣は幕府が認めた公式な施設だった為、格式が高く参勤交代で三国街道を経路とした長岡藩(藩庁:長岡城・新潟県長岡市)、村松藩(藩庁:村松城・長岡県五泉市)、与板藩(藩庁:与板陣屋※幕末は与板城・新潟県長岡市与板町)などの諸大名や佐渡奉行、新潟奉行などの上役が利用したとされます。

現在の町並みは万延元年(1860)の火災以降に再建されたもので、建て替えが進み本陣など主要な建物は取り壊されていますが、「大丸屋」や「和泉屋」など大型の旅籠建築が数棟残され、宿場町らしい町並みを僅かに残しています。又、永井宿から三国峠まで約7キロが「三国路自然歩道」として整備されています。

【 永井宿:三国戦争 】−戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟に参加した長岡藩はじめとする北陸諸藩に侵攻する為、軍事的に重要視された三国峠を巡り、後に三国戦争と呼ばれる会津藩と巡察副使である豊永貫一郎(土佐藩士)と原保太郎(長州藩士)に率いられた新政府軍との間に戦闘が行われました。

永井宿は新政府軍(前橋藩300人、高崎藩300人、吉井藩80人、沼田藩120人、小幡藩100人、伊勢崎藩150人、七日市藩80人、安中藩150人、佐野藩60人、足利藩80人など兵約1千2百人)に拠点として利用されています。

三国峠には会津藩約120人が布陣、高崎藩は永井宿の裏山から、吉井藩と佐野藩は法師から、残った本隊は三国街道から三国峠を目指し、大般若塚で両軍が激突し激しい戦闘(三国戦争)が行われました。しかし、圧倒的な兵力差から会津藩は敗れ、三国街道の宿場町である浅貝宿・二居宿を焼き払い、小出島(新潟県魚沼市小出島)まで撤退しています。

三国戦争では高崎藩の深田竹次郎(21歳、頼政神社褒矣招魂碑 ※三国峠の案内板には深井八弥とある)、佐野藩の竹村覚右衛門(29歳、東光寺墓碑 ※三国峠の案内板には伊島吉蔵とある)、吉井藩の吉田善吉(27歳、大般若塚墓碑)が討死、宿場の外れには白虎隊の町野久吉(17歳)が単身で新政府軍に切り込み戦死、その遺骸を永井宿の住民が篤く葬った「町野久吉の墓」が建立されています。又、永井宿の住民も敵陣視察や、会津藩の防衛施設の撤去などに駆り出されています。

【 永井宿:本陣 】−永井宿の本陣を務めた笛木家は本陣職を勤める一方で問屋や年寄でもあった為、日本海の物産と上州内陸部の物産が笛木家を通して行き来した為、莫大な富を得る豪商として発展しました。

天明7年(1787)に猿ヶ京村、合瀬村、永井村、吹路村の4村が猿ヶ京村と合瀬村の2村と永井村と吹路村の2村が一つの行政区間に振り分けられた事を受け、永井村兼吹路村の名主に就任しています。

享和3年(1803)に行われた伊能忠敬の第4次測量で三国街道を利用した11月13日(旧暦9月29日)に永井宿の名主笛木四郎右衛門家で宿泊した事が記録に残されています。

江戸時代末期の万延元年(1860)に発生した火災により焼失、文久元年(1861)に再建、当時の主屋は木造2階建て、切妻、こけら葺、平入、桁行14間半、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、向かって右側には身分が高い人物が利用する式台付の玄関、左側には通用口、中央に縁側付の座敷が配され、2階正面は「せがい造り」によって前に迫出し、それを支える「もちおくり」には兎の彫刻が施されていたそうです。

【 明治時代以降 】−明治時代以降に宿場制度が廃止され、近代交通網が整備されると本陣としての役割も失い衰微しましたが、昭和6年(1931)には与謝野晶子が永井宿本陣を利用するなど旅館業として存続していたようです。

昭和に入り笛木家住宅は売りに出された後に解体され現在その姿を見る事は出来ませんが、跡地は与謝野晶子の歌碑「 訪ねたる 永井本陣戸を開き 明かりを呼べば 通う秋風 」をはめ込んだ本陣の石碑が建立されるなど小公園として整備され、名称「永井宿本陣跡」として昭和49年(1974)にみなかみ町指定史跡に指定されています(与謝野晶子は昭和6年:1931年に湯治で法師温泉を訪れており、その際、永井宿の本陣にも立ち寄っています)。

又、若山牧水も大正11年(1922)に法師温泉に向かう途中に永井宿を通過しており、「 山かげは 日暮れ早きに学校の まだ終らぬか 本読む声す 」の詩を残しています。毎年4月に行われる鎮守の永井十二神社(明治41年:1918年に猿ヶ京宿の鎮守である神明神社に合祀)の例祭では、各家家に獅子舞が奉納され本陣の屋敷跡には1対の人形、辻には浦嶋と亀の万灯が設けられています(郷土館には天保年間:1830〜1844年に制作された獅子頭が展示されています)。

【三国街道】−三国街道は古くから日本海と上州上野国(現在の群馬県)を結ぶ主要街道で、戦国時代には春日山城(新潟県上越市)を拠点に越後国(現在の新潟県)、越中国(現在の富山県)、能登国(現在の石川県の一部)を支配した上杉謙信が関東進出で軍用として利用しました。

街道沿いには多くの城が築かれ、軍の増援や物資の供給の拠点として機能し街道も整備されました。江戸時代に入ると佐渡島(新潟県佐渡市)の佐渡金山で当時世界的な産出量を誇った金を江戸まで運び込む経路として五街道(中山道・東海道・日光街道・奥州街道・甲州街道)に次ぐ格式を得ました。

又、佐渡島は罪人の流刑地だった為、江戸などで捕縛された罪人で島流しの刑になったものは、幕府の役人の管理の下、三国街道を利用して佐渡島まで護送されていきました。金井宿本陣の地下牢は佐渡島に護送中の罪人を一時拘禁する為のもので、全国的に見ても珍しい遺構とされます。さらに、北陸諸侯の参勤交代、佐渡奉行往来の経路でもあり各宿場には本陣、脇本陣が設けられ宿泊や休息で利用されています。

【御坂三社神社】−御坂三社神社は三国峠に鎮座する神社で、峠が接する上野国(栃木県)と越後国(新潟県)、信濃国(長野県)の名社として知られる赤城神社(上野国二之宮)、弥彦神社(越後国一之宮)、諏訪大社(信濃国一之宮)の分霊が祭られています(何故、上野国一之宮である貫前神社が祭られていないのかは不詳。

元々は赤城神社が一之宮で、貫前神社に譲ったとの伝説もあり、譲る前に勧請されたのかも知れません)。当初は三国明神と呼ばれていましたが、戦国時代に上杉謙信が仏教に篤く帰依していた事から三国権現に改められ、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、現在の「御坂三社神社」に改められています。

三国街道:宿場町・再生リスト
みなかみ町永井:上空画像


みなかみ町永井:ストリートビュー

永井宿(本陣跡・旅籠):写真

永井宿:町並み
永井宿:町並み 永井宿:町並み 永井宿:町並み 永井宿:町並み
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三国街道跡
三国街道 三国街道 三国街道 三国街道


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