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吾妻神社(中之条町)概要: 吾妻神社は群馬県吾妻郡中之条町横尾に鎮座している神社です。吾妻神社の創建は不詳ですが伝承によると上古の時代(大和時代から大化の改新頃)に勧請されたのが始まりだったとされます。
神道集の上野国児持山之事によると伊勢国阿野津の地頭、阿野権守保明の娘である子持御前は加若次郎和理と夫婦の契りを結び仲良く過ごしていたそうです。
ところが、伊勢国の国司である在間中将基成は子持御前の美しさに心を奪われた為、加若次郎和理に無実の罪を着せ下野国室の八嶋に流罪にさせました。
子持御前は実家の保明の居館に戻った事から、基成は子持御前を妻にする為、保明の居館に攻め寄せました。
保明は一計を案じ、鮃鮎を燃やして煙を立てると大きな声で御経を唱え子持御前の葬儀を偽装すると、騙された基成は兵を引き上げています。
その後、子持御前は下野国に下ると、熱田明神、諏訪明神の助けを借りて加若次郎和理を救い出し、没後は子持御前は子持明神、加若次郎和理は当社の祭神である和利明神になったと記されています。
当初は見付山(現在の嵩山)の麓の五反田に鎮座し、神田氏が祭祀を司っていましたが、永享年間(1429〜1441年)に塩屋氏が領主となり和利宮城を築くと、御手洗山の山頂付近(現在の伊勢町)に遷座し、塩屋氏に従った小板橋氏を神官に命じています。
塩屋氏は吾妻三家に数えられる等台頭し、当社を篤く信仰していたものの、白井城の城主白井長尾重国の三男である重儀の後裔である尻高氏によって攻められ和利宮城は落城、塩屋氏は没落した為、当社は外護者を失っています。
尻高氏の治世の弘治2年(1556)、御手洗山の山頂付近までは参拝に不便だった事から遥拝所があった現在地(横尾)に遷しています。
その後、甲斐武田家に従った真田家が当地に侵攻すると尻高氏は真田家に与するようになり、永禄7年(1564)には真田幸隆が吾妻神社の社領を安堵しています。
天正10年(1582)に織田・徳川連合軍による武田領侵攻により武田家が滅びると、真田昌幸は独立を図り、当地を掌握すると、引き続き当社を庇護し社領を安堵しています。
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天正18年(1590)に真田信幸が沼田領主になると、当社に対し社領の寄進が行われています。
江戸時代に入り沼田藩が立藩すると引き続き藩主を担った真田家が庇護し、寛永16年(1639)には真田信政、明暦3年(1657)には真田信澄が社領を寄進しています。
文化9年(1812)4月13日の火災により多くの社殿、神宝、記録などが失われ、文政4年(1821)4月1日に再建されたました。
当初は吾妻七社明神(子持山・嵩山・鳥頭宮・山代明神・半手本明神・駒形明神・白専馬明神)の1社(嵩山に加若次郎和利が祭神として祀られていたとも)で和利宮や和流宮、割宮などと称していました。
古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、周辺町内の多くの産土神(151柱)を合祀した事で、「吾妻の総鎮守」となり社号を吾妻神社に改称し昭和3年(1928)には郷社に列しています。
現在の吾妻神社本殿は江戸時代後期の建物で三間社流れ造り、桁行3間、張間2間、銅板葺き、木鼻や蝦虹梁、壁面、隔板などの細部には獅子や龍の精巧な彫刻や木組が見られます。
拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行4間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り、正面屋根には大きな千鳥破風が設えています。
境内は広く神門(入母屋、鉄板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚門)や神楽殿(木造平屋建て、入母屋、鉄板葺、妻入、桁行2間、梁間3間半、正面三方吹き放し)なども配されています。
拝殿には奉納された多くの絵馬(天保8年:1837年)や句額(文政6年:1823年)、算額(明治11年:1878年)等が掲げられており、当時の俳人や民間信仰の様子が解る貴重なものとして、額9面、武具4点が名称「吾妻神社献額」として平成6年(1994)に中之条町の重要文化財に指定されています。
祭神の大穴牟遅命は大国主命の別名で、病気を治す医薬の道を広く人々に教えた神である事から病気平癒や医薬にご利益があるとされています。
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