湯本家住宅(赤岩集落)概要: 湯本家住宅は案内板によると「 江戸・明治からの家並みを今に残す赤岩集落は、観音堂や毘沙門堂、水車などが点在する素朴な山里です。幕末には、長崎でシーボルトに学んだ蘭学者・蘭医の高野長英が、この湯本家にかくまわれていたことがありました。開国論を唱えて捕えられた長英が、火災によって獄舎を逃れたときのことです。湯本家の祖は木曽義仲に仕えた人物で、義仲敗死ののち、お品かの胤を宿した娘を守りながら、草津に近い細野平に隠れ住み、細野御殿介を名乗ったといわれています。 六合村教育委員会 」とあります。
湯本家の祖は木曽義仲の家臣で望月御殿助と称し、娘は義仲の愛妾として仕えていました。義仲が宇治川の戦い(滋賀県大津市)で敗れると、娘が妊娠していた事から、暇をもらい戦線を離脱し、細野平まで何とか流れ着く事が出来、娘もここで出産しました。義仲は粟津の戦いで討死し、源頼朝の時世となった建久4年(1193)、頼朝が当地で狩りをする事となり、その案内人として御殿助が抜擢されました。御殿助は身分を隠す為に細野姓に改め、頼朝を草津温泉に案内すると、大変気に入った事から「湯本姓」と共に草津温泉の湯守の任と周辺の領地が与えられたそうです。湯本家は戦国時代には周辺を支配する土豪となり、真田家に従い長篠の合戦など多くの合戦にも従軍しています。その後の詳細は不詳ですが、天正10年(1582)に武田家が滅亡した時、又は延宝9年(1681)沼田真田家が改易になった際に一族の中の長左衛門家は帰農し赤岩集落に土着したと思われます。赤岩集落では名主を歴任し、医療も手掛けた関係で、幕末には高野長英と関係を持ち、長英が赤岩集落に逃避した際には隠れ家として提供したようです。
現在の湯本家住宅は江戸時代後期の文化3年(1806)に建てられたもので土蔵3階建て(3階部分は明治30年:1897年に増築)、切妻、鉄板葺、妻入、正面には養蚕で大部屋を利用する為に通路が前に張り出す特異な形状となっています。赤岩集落では主屋の建物が木造が多い中、大規模な土蔵造りである湯本家が裕福だった事が伺えます。湯本家住宅は平成11年(1999)に中之条町(旧六合村)指定重要文化財に指定されています。又、湯本家住宅が屋敷を構える赤岩集落は江戸時代後期から明治時代の養蚕民家が数多く存在する事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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