史 跡 名 | 場 所 | 概 要 |
・円福寺 | ・群馬県 ・太田市 ・別所町 | ・円福寺の創建は鎌倉時代の寛元2年(1244)、新田家4代当主新田政義が当地に流された際、仁和寺(京都府京都市右京区御室)の阿闍梨静毫和尚を招いて開山したのが始まりとされます。以来、新田家の菩提寺として庇護され、境内には20基余の一族の墓碑が建立されています。 |
・十二所神社 | ・群馬県 ・太田市 ・別所町 | ・十二所神社の創建年は不詳ですが、円福寺境内背後に控える茶臼山古墳(前方後円墳:全長168m)の後円部頂上に鎮座している神社です。古くから円福寺とは神仏習合し開山者である阿闍梨静毫和尚が奉納した神像が現存し太田市指定文化財に指定されています。 |
・総持寺 | ・群馬県 ・太田市 ・世良田町 | ・総持寺は仁安元年(1166)に新田義重が開基となり新田家一族の館の敷地内に開かれたと伝えられています。鎌倉時代末期に新田義貞が慶範を招いて中興開山し中興第2世の慶賢により寺号を総持寺に改めています。 |
・長楽寺 | ・群馬県 ・太田市 ・世良田町 | ・長楽寺は鎌倉時代初期の承久3年(1221)に後鳥羽上皇の勅願により得川義季が栄朝禅師を招いて創建した寺院です。新田一族縁の寺院として庇護され一大修行道場として発展し、室町時代初期には関東十刹に格付けられています。江戸時代は得川氏の後裔を自称する徳川将軍家から篤く庇護され、世良田東照宮の別当寺院となりました。 |
・世良田東照宮 | ・群馬県 ・太田市 ・世良田町 | ・世良田東照宮は寛永13年(1636)に三代将軍徳川家光による日光東照宮の大造営に伴い、二代将軍徳川秀忠が造営した日光東照宮の社殿が当地に移築され寛永21年(1644)に改めて初代将軍徳川家康の御霊を勧請し創建された神社です。世良田東照宮本殿、拝殿、唐門、鉄燈籠は国指定重要文化財に指定されています。 |
・明王院 | ・群馬県 ・太田市 ・安養寺町 | ・明王院は平安時代後期の康平4年(1061)に後冷泉天皇の勅願により源義家が頼空上人を招いて創建した寺院です。その後は源氏に一族である新田氏の氏寺として発展し、本尊の不動明王は新田義貞の鎌倉幕府討伐の挙兵を一族に触れ回ったとの伝説があり「新田触不動」の異名があります。境内は新田義貞の居館跡とも云われています。 |
・生品神社 | ・群馬県 ・太田市 ・新田市野井町 | ・生品神社は古代の時代に豊城入彦命が上野国を開発した際、大己貴命の分霊を勧請し創建したと伝えられています。平安時代に発生した平将門の乱で平将頼が討死すると御霊が祭られ以後生品明神と呼ばれるようになったそうです。元和3年(1333)には新田義貞が鎌倉幕府の倒幕運動の挙兵した場所とされ、一族150人が境内に終結したそうです。 |
・反町館 | ・群馬県 ・太田市 ・新田反町 | ・反町館は鎌倉時代末期に新田義貞によって築城された居城です。南北朝時代に入ると義貞は大将の一人として南朝方の軍を率いて各地を転戦した事から、反町館には家臣である大舘氏明が配されました。その後、新田義興が城主になったものの正平13年(1358)に矢口の渡しで謀殺され命を落としています。現在は照明寺の境内となっています。 |
・江田館 | ・群馬県 ・太田市 ・新田上江田町 | ・江田館は新田義重の5世後裔である江田行義が築いたとされます。行義は新田家棟梁である新田義貞に従い南朝方として各地に転戦しましたが、事実上南朝方が敗北すると守下姓に改名したそうです。その後は金山城の支城として重きを成しますが、天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると廃城となっています。 |
・重殿水源 | ・群馬県 ・太田市 ・新田市野井町 | ・重殿水源は豊富な湧水だった事から新田荘を開発する上でとても重要視されました。鎌倉時代末期には重殿水源(一井郷沼水)の用水を巡り大館宗氏と岩松政経が対立した事が記録に残っています。 |
・矢太神水源 | ・群馬県 ・太田市 ・新田大根町 | ・矢太神水源は豊富な湧水だった事から新田荘を開発する上でとても重要視されました。水質が良い事から貴重な紅藻類である「ニホンカワモズク」が生息しています。
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