館林市: 善導寺

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概要・歴史・観光・見所
善導寺(館林市)概要: 終南山見松院善導寺は群馬県館林市楠町に境内を構えている浄土宗の寺院です。善導寺善導寺の創建は和銅元年(708)、行基菩薩(奈良時代の高僧)が全国を巡錫し上州館林に訪れた際、草庵を設けたのが始まりと伝えられています。その後、建久4年(1193)、頓阿見性法師が行基縁の旧跡として草庵を設けて長くこの地で修行を行いました。当初は「行基寺」や「見性院」と呼ばれていたそうですが建治2年(1276)、寂恵良曉上人(白旗流の祖)が一向専修の道場として中興開山し終南山見性院善導寺と寺号を改めました。赤井氏、由良氏、長尾氏、小田原北条氏など歴代領主に庇護され寺運も隆盛しましたが戦国時代の戦乱の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録なども焼失し一時衰退します。

天正18年(1590)、小田原の役で北条家が滅ぶと館林城には徳川四天王の一人榊原康政が10万石で入封し幡随意上人を招いて善導寺を再興、榊原家の香華寺として寺領100石が安堵し七堂伽藍をはじめ境内を整備しました。寛永20年(1643)、3代藩主榊原忠次は14万石で白河藩(福島県白河市)に移封になると、3代将軍徳川家光が朱印状を発布するなど幕府が庇護し、引き続き寺領100石が安堵、関東十八檀林(増上寺・伝通院・霊巌寺・霊山寺・幡随院・蓮馨寺・勝願寺・大善寺・浄国寺・光明寺・弘経寺・東漸寺・大巌寺・弘経寺・大光院・善導寺・常福寺・大念寺)の1つに選定され院号を「見性院」から「見松院」に改めています。江戸時代以降は寺運が隆盛し広大な境内を有していましたが、明治維新後は明治天皇の勅願所となったものの、日清製粉や鉄道誘致などで次第に境内が縮小され平成2年(1990)に館林駅前広場整備事業のため、館林駅前から現在地に移転する事になりました。

善導寺山門は、入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚二重楼門、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、上層部左右には花頭窓、高欄付き。本堂は入母屋、銅板葺き、平入、正面3間向拝付き。不動堂は宝形造、銅板葺き、桁行3間、張間3間、正面1間向拝付き、外壁左右には花頭窓付。境内裏手には榊原康政、大須賀忠政(康政の長男、横須賀藩初代藩主)、榊原康勝(康政の3男、館林藩2代藩主)、花房氏(康政の側室、康勝の生母)、南直道(康政の側近、殉死)の墓があり昭和28年(1953)に群馬県指定史跡に指定されています。山号:終南山。院号:見松院。寺号:善導寺。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

【 善導寺菩提者:榊原康政 】-榊原康政は、榊原長政の次男として生まれ、幼少の頃から徳川家康(当時は松平元康)の小姓として常に行動を共にした事で信頼も篤く、家康の「康」を賜り於亀から康政に改称しています。元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀3年(1573)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦い、天正9年(1581)高天神城攻防戦、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590)の小田原の役などで家康に従軍、大功を挙げ、家康関東移封の際に上野国館林領(群馬県館林市:館林城)10万石が与えられました。当時の10万石という石高は徳川家臣団の中では第2位にあたり徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられました。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍し、中山道を西上、石田方に与した真田昌幸、幸村(繁信)父子の居城である上田城(長野県上田市)攻防戦では軍艦として戦闘回避を進言したとされますが聞き入れられず、結果として秀忠と共に本戦には遅参しています。慶長11年(1606)に死去、享年59歳、遺骸は菩提寺である善導寺に葬られました。戒名「養林院殿上誉見向大禅定門」。

【 善導寺菩提者:大須賀忠政 】-大須賀忠政は康政の長男として生まれ、母方の実家である大須賀康高に嗣子がいなかった為、養子として大須賀家に入りました。天正18年(1590)に上総久留里領3万石が与えられ、慶長6年(1601)に遠江横須賀6万石で移封し横須賀藩初代藩主となっています。慶長12年(1607)に死去、享年27歳、戒名「花馨院殿泰誉岩捜安大居士」、遺骸は大須賀家の菩提寺である撰要寺(静岡県掛川市)に葬られました(忠政の嫡男である忠次が榊原家を継いだ際、善導寺に分骨されたのかも?)。

【 善導寺菩提者:榊原康勝 】-榊原康勝は康政の3男で長男である忠政が大須賀家の養子となり、次兄が早死にした為、館林藩2代藩主に就任しました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣では戦功を挙げ、慶長20年(1650)の夏の陣では豊臣方の主力の1つでもある木村重成隊に損害を与えたものの、毛利勝永隊には事実上敗戦し多くの死傷者を出し、本人も持病である腫れ物が悪化し同年に死去しています。享年27歳、戒名「心光院殿長誉了英大禅定門」、遺骸は菩提寺である善導寺(館林市)に葬られました。

【 善導寺菩提者:花房氏・南直道 】-花房氏は康政の側室で康勝の生母、出生は諸説有り。承応2年(1635)に死去、戒名「周光院殿葉誉青荷大姉」。南直道は由良成繁、国繁の家臣でしたが小田原の役後に浪人となり、その後康政の側近になりました。康政が死去した三日後に行われた葬儀が恙無く終えると殉死、康勝は痛く感動し康政の墓の隣に葬られました。戒名「腹誉道切禅定門」。

善導寺:写真

善導寺境内正面に設けられた山門(二重楼門)
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善導寺山門から見た境内 善導寺参道石畳みから見た本堂 善導寺境内に設けられた榊原康政の墓 善導寺境内に設けられた鐘楼と梵鐘


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