妙義神社

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概要・歴史・観光・見所

妙義神社(富岡市)概要: 妙義神社は群馬県甘楽郡妙義町妙義に鎮座している神社です。妙義神社の創建は諸説あり宣化天皇2年(537)又は欽明天皇の御代(539〜571年)に波己曽大神の分霊が勧請されたのが始まりと伝えられています。

鎮座する妙義山(最高峰は相馬岳の1103.8m))は上毛三山(赤城山:赤城神社・榛名山:榛名神社・妙義山:妙義神社)の1つで、後に日本三大奇勝、日本百景に数えられる程、特異な景観で古くから山岳信仰や自然崇拝的な信仰の対象となり広く知られる存在でした。

妙義神社の御神体は妙義山を構成する山の1つ白雲山とされ、山頂手前の洞穴には奥の院(白雲山妙義大神)が鎮座しています(奥之院から山頂までは登山上級者が望む難所が続いています)。格式も高く平安時代に編纂された歴史書「日本三代実録」には"授上野国正六位上波己曽神従五位下"、「上野国神階帳」には"従二位波己曾大明神"と記載され、延喜式神名帳に何故か記載されていませんが、広く信仰を集めました。

妙義神社の中心部に誘う幽玄な参道
妙義神社の中心部に誘う幽玄な参道

一般的に認識されている妙義神社を説明するにはやや回りくどい説明が必要です(もちろん私論です)。まずは、元々は独特の山容や、中腹から山頂にかけて奇岩怪石が連続し、自然崇拝の対象となった妙義山(旧名:はこそやま)を神と見立てた波己曽社と、その後、別当寺院が鎮守社として祭った妙義権現の2社が並列していたと認識する必要があります。

そして、妙義権現の後継神社が妙義神社で、波己曽社の後継神社は妙義神社の境内社である波己曽社という事になります。妙義神社の由緒上は前身が波己曽社で平安時代に編纂された「三代実録」や、「上野国神階帳」に記載されている由緒ある神社として紹介されていますが、それはあくまで波己曽社の事績であり、妙義権現の事績ではありません。

鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたそうです。

格式が感じられる妙義神社の唐門
格式が感じられる妙義神社の唐門

妙義権現の創建年は判りませんが、白雲山高顕院石塔寺が波己曽社の別当寺院として成立した後に鎮守社として勧請されたと思われます。又、南北朝時代に権大納言藤原長親(花山院長親)が当地に流され、境内を整備し再興した際に法号である「子晋明魏」から「妙義」の名称が成ったとされますが、客観的な資料が無く不詳、そもそも「権大納言」という高い身分の著名人が当社と関わる可能性は極めて低いと言えます。

妙義神社は古くから神仏習合し別当寺院として白雲山高顕院石塔寺が祭祀を司り、寛永14年(1637)に長清法印が中興すると上野東叡山寛永寺(天台宗)の本末寺、御兼帯、座主輪王寺宮の隠居所となり歴代将軍や皇室ら崇敬、庇護され、最盛期には末寺2カ寺、専中3カ寺、門徒7ケ寺を擁し江戸時代中期以降は境内の整備が進み妙義千軒と称されるほど繁栄しました。

又、中世に菅原道真の分霊が勧請合祀された事で江戸時代の領主である七日市藩(藩庁:七日市陣屋)の藩主前田家(本家加賀前田家は祖神として菅原道真を篤く信仰した)の崇敬社として代々崇敬庇護しました。

精緻な彫刻がふんだんに施されている妙義神社唐門
精緻な彫刻がふんだんに施されている妙義神社唐門

妙義神社は元々地元神と思われる波己曾神が主祭神として祀られていましたが、神仏習合すると妙義大権現が主祭神となり現在は日本武尊と変遷しています。私論ですが白雲山高顕院石塔寺の鎮守社だったはずの妙義権現が本社となり、何時しか波己曽社は妙義権現の摂社に成り下がったようです。

しかし、明治時代初頭に発令された神仏分離令により石塔寺は廃寺となり、妙義神社に改めた際、中世以前に格式の高かった波己曽社の由緒を書き写し、さらに祭神が妙義権現では如何にも仏教色が強く問題が多いと判断し、日本武尊にすり替えたと思われます。

このような力業をする場合には合祀や相殿にする例が多いのですが、妙義神社の場合は波己曽社を引き続き摂社として存続させ、一方で祭神を波己曽神から日本武尊にすり替える事で、妙義権現=日本武尊=波己曽神、という理屈を成立させたようです。このような行為は大小問わず全国各地で行われ、神仏分離令により存続の危機に陥った神仏習合の社寺の常套手段だったようです。

極彩色に彩られている豪勢な妙義神社の拝殿
極彩色に彩られている豪勢な妙義神社の拝殿

又、妙義山周辺には中之嶽神社など波己曾神を祭る多くの神社が鎮座していましたが、統廃合や祭神変更により信仰が薄れていったようです。妙義神社は明治時代初頭に発令された神仏分離令により妙義神社の別当寺院だった石塔寺は廃寺、仏式も排除され明治5年(1872)に郷社、昭和9年(1934)に県社に列しています。

妙義神社の社殿は宝歴6年(1756)に大改修されたもので、権現造り、黒漆喰に金箔や極彩色で彩られ、多彩で精巧な彫刻は「上毛の日光」と称されるほどです。妙義神社の社殿(本殿・幣殿・拝殿)、唐門、総門と社宝である紙本著色地蔵菩薩霊験記は国指定重要文化財に、旧妙義神社社殿で現在の波己曽社社殿と随身門、袖廻廊、銅鳥居、石垣が群馬県指定重要文化財にそれぞれ指定されています。祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権大納言長親。(※ 写真撮影時は土砂崩れが原因で進入禁止でしたので妙義神社社殿の写真はありません。)。

妙義神社の信仰の中核を成す社殿
妙義神社の信仰の中核を成す社殿

妙義神社の国指定重要文化財
拝殿−入母屋、銅瓦棒葺、千鳥破風、唐破風向拝付、桁行3間、梁間2間
・ 本殿−入母屋、銅瓦棒葺、桁行3間、梁間2間
幣殿−銅瓦棒葺、桁行3間、梁間1間
・ 唐門−唐破風、銅瓦棒葺、平入
・ 総門−安永2年−切妻、銅板葺、三間一戸、八脚門、旧仁王門
・ 紙本著色地蔵菩薩霊験記−鎌倉時代末−長さ537.7p、幅36.5p

妙義神社の群馬県指定重要文化財
・ 波己曽社本殿−明暦2年−2間社、入母屋、銅板葺、極彩色
・ 波己曽社幣殿−明暦2年−桁行2間、梁間3間、極彩色、銅板葺
・ 波己曽社拝殿−明暦2年−桁行3間、梁間2間、入母屋千鳥破風、銅板葺
・ 随身門−寛文期−切妻、銅板葺、三間一戸、八脚門
・ 銅鳥居−寛文8年−青銅製
・ 石垣−江戸中期−高さ約10m、安山岩製

妙義神社の富岡市指定重要文化財
・ 社務所及び御殿−嘉永5年−寛永寺の座主輪王寺宮の隠居所
・ 青銅製燈籠(附:妙義大権現御神燈奉納寄附連名帳)−元治元年

妙義神社:上空画像

八脚門を簡単に説明した動画

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ


妙義神社:ストリートビュー

妙義神社:鳥居・総門・写真

妙義神社参道正面に設けられた銅製大鳥居
[ 付近地図: 群馬県富岡市 ]・[ 富岡市:歴史・観光・見所 ]
妙義神社参道石段と石垣、石造社号標 妙義神社石段から見上げた朱色の総門(仁王門) 妙義神社参道石段と意匠に富んだ銅製燈篭 妙義神社本社に続く参道石段と大木
妙義神社の境内社である波己曽社拝殿正面と石造狛犬 妙義神社の境内社である波己曽社拝殿右斜め前方 妙義神社の境内社である波己曽社本殿と幣殿と透塀 妙義神社の境内にある旧宮様御殿正面唐破風屋根の玄関
妙義神社の境内にある旧宮様御殿の格式ある式台付玄関 妙義神社の境内にある旧宮様御殿全景 妙義神社境内に生える大木 妙義神社の御神体だった妙義山


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