倭文神社(伊勢崎市)概要: 倭文神社は群馬県伊勢崎市東上之宮町に鎮座してる神社です。倭文神社は案内板によると「当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第十一代垂仁天皇の御宇三年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。 貞観元年(八五九)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長五年(九二七)に撰集された「延喜式」神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、「従一位倭文大明神」とあって上野国の九之宮とも称された。その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(一六一五〜二三)から寛永年間(一六二四〜四三)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光のれ慶安元年(一六四八)九月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約八十年を経て、享保十二年(一七二七)八月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応二年(一八六六)十一月九日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。社殿はその後、明治十三年十月二十四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正十四年には、神饌幣帛料供進社に指定された。今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。 」とあります。
倭文神社の拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行4間、梁間3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、正面1間分は吹き放し。倭文神社の本殿は一間社流造、銅瓦棒葺き、外壁は真壁造り横板張り。倭文神社の特殊神事である"田遊び"は毎年1月14日に田植えの予祝行事で、古式を伝える神事として貴重な事から平成19年(2007)に伊勢崎市指定重要無形民俗文化財に指定されています。
倭文神社の社宝である「倭文神社の朱印状」は江戸時代に幕府の庇護になった際、慶安元年(1648)に三代将軍徳川家光が発布した以降、歴代将軍が追認した9通の朱印状が残され、貴重な事から平成4年(1992)に伊勢崎市指定文化財に指定されています。上野国十二社。祭神:天羽槌雄命。配祀神:倉稲魂命、木花咲耶姫命、誉田別命、菅原道真命、大己貴命、素盞嗚命、豊受姫命、大山祇命、菊理姫命。
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