榛名神社(高崎市)概要: 榛名神社は群馬県高崎市榛名山町に鎮座している神社で、古くから霊山として知られた上毛三山(赤城山:赤城神社・妙義山:妙義神社・榛名山:榛名神社)に数えられた榛名山を御神体として信仰されました。
案内板によると「 当社は第31代用明天皇丙午元年(1300余年前)の創祀で、延喜式内社である。徳川時代末期に至る迄神仏習合の時代が続き、満行宮榛名寺などと称えて、上野寛永寺に属し、別当兼学頭が派遣されて一山を管理していたが、明治初年神仏分離の改革によって榛名神社として独立した。社殿は寛政4年の改築(170余年前)御祭神は後に立っている御姿岩の洞窟中に祀られている。神代舞(大々御神楽36座)は250年前から伝えられたもので県の無形文化財に指定されている。」とあります。
榛名神社が何時頃から信仰が始まったのかは判りませんが、境内には現在御神体として崇められている「御姿岩」や「鞍掛岩」、「鉾岩」など奇岩怪石が数多く点在している事から、古代人の素朴な自然崇拝が原点かも知れません。境内の一角にある巖山遺跡は寺院と思われる建物跡や、9世紀の土器、小金銅仏(地蔵菩薩立像)、錫杖頭部、寛平大宝などが発見されている事から9世紀には既に信仰があり、しかも既に神仏習合し仏教色の強い神社だった事が窺えます。
又、修験道の開祖とされる役行者が修行で訪れたとの伝承が残され、「行者渓」はその由来になったとも云われています。榛名神社は明治時代の神仏分離令が発令されるまで「満行権現」と呼ばれ、「満行」とは伝説によると、無罪だったのにも関わらず上野国に流罪となった満行と呼ばれる朝廷の高官が、将来を絶望し榛名湖に身投げると、大蛇に姿を変え都に再び戻り、さらに雷神となり帝に祟りを及ぼしたと伝えられてます。
この伝承から満行権現は水神と雷神を併せ持つ御利益があるとして、特に雨乞い祈願や五穀豊穣の祈願が行われたそうです。その後、平安時代の延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載され、上野国(現在の群馬県)では式内社が12社列記、上から6番目に榛名神社があたる為、上野国十二社の内六ノ宮とされました。神仏習合時代の榛名山は群馬郡三十三観音霊場第5番札所。
一方、伝承によると榛名神社は綏靖天皇(第2代天皇)の時代に饒速日命の御子神である可美真手命(熟美真味命)とその子供(彦湯支命=元湯彦命)が神籬を立て天神地祇(天つ神と国つ神。すべての神々。)を祀ったのが創建とされ、用明天皇(第31代天皇・在位:585〜587年)の御代に祭祀場が設けられたと伝えられています。
元々御神体だったと思われる榛名山は古くから霊山として信仰の対象となり、特に西暦489年に二ッ岳渋川噴火により大規模なマグマ水蒸気噴火と泥流が発生し、さらに、525年から550年にかけて大規模マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火、マグマ噴火泥流が発生した事により榛名山の神を鎮める為に祭祀施設が設けられたと思われます。
そういう意味では用明天皇の御代に榛名神社が創建されてたという由緒は的を得ている印象を持ちます。中央火口丘の榛名富士溶岩ドームや、カルデラ湖である榛名湖は景勝地でもあり「伊香保」と呼ばれる歌枕の地としても著名な存在なり、万葉集にも「伊香保」を題材とする歌が複数収録されています。
榛名神社の元々の主祭神と目される「元湯彦命」は、資料的価値に疑問視されている「先代旧事本紀巻第五・天孫本紀」に可美真手命(熟美真味命)と活目邑の五十呉桃の娘である師長姫との間に生まれた2人の子供、味饒田命と彦湯支命の内の彦湯支命と同神という説があります。彦湯支命は綏靖天皇の御代に足尼(宿禰)となり、その後、申食国政大夫に就任したとされ、物部氏の祖とも云われています。
榛名神社の由緒で出現する饒速日命、可美真手命(熟美真味命)、彦湯支命(元湯彦命)は何れも物部氏に関係が深く、成立年不詳の「榛名山志」によると東殿には饒速日尊、中殿には元湯彦命、西殿には熟真道命が祭られていたと記されている事から、榛名神社を奉斎したのは物部氏一族だった事が窺えます。
実際に物部一族が当地を支配したかは判りませんが、「続日本紀」の天平神護元年(765)十一月の条に「上野国甘楽郡の人中衛物部蜷淵ら五人に物部公の姓を賜わる。」旨の記事があり、同じく天平神護二年(766)五月の条に「上野国甘楽郡の人外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる。」旨の記事がある事から、8世紀の上野国西部の豪族が物部氏に従い「物部」姓を賜っていた事が窺えます。
以上の事から察すると、榛名神社は当初、榛名山を御神体として火山を鎮める祭祀施設として創建され、8世紀以後は物部姓を賜った上野国西部の豪族が物部氏の祖神を祭る神社として奉斎した可能性があります。
榛名神社は足利持氏、上杉謙信、小田原北条氏、真田氏といった歴代領主や支配者に崇敬され、特に武田信玄は箕輪城侵攻の際、戦勝祈願を行い杉の巨木に矢を立てたとい伝説が残っています(矢立の杉)。
榛名神社は戦国時代後期になると座主職も置かれず衰退しますが、江戸時代に入り天海僧正が再興し、慶長19年(1614)には「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が発布され寛永寺の配下となります。天海僧正は天台宗の高僧で、徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えた事で大きな影響力があり、幕府からの庇護の得たい有力な社寺は天台宗に転じて天海に擦り寄る例が数多く見られました。
榛名神社の学頭には中里見光明寺、別当には榛名山満行院が祭祀を取り仕切り、幕府からも庇護され再び社運が隆盛します。江戸時代後期に入ると榛名神社は修験僧だけでなく「榛名講」と呼ばれる民間信仰も周辺の農村部に浸透したこともあり、多くの参拝者が訪れ山内の社家は3000坊を超え繁栄を極めたと言われています。
榛名神社は古くから榛名山山岳信仰の修業場として神仏混合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により、形式上は仏教色は一掃され、旧社号とされる「榛名神社」に改め県社に列しています。
ただし、長い参道には随神門(旧仁王門・仁王像が安置されていた。)や神宝殿(三重塔・三間三重塔婆)、国祖社(旧本地堂・本地仏である勝軍地蔵が安置されていた。)などが残り神仏習合時代の名残を見せ、現在も国指定重要文化財に指定されている本社(事実上の本殿、信仰上の本殿は本社背後の御姿岩とされます)・弊殿・拝殿・国祖社・額殿・双龍門・神楽殿・随神門をはじめ多くの文化財が残されています。
榛名神社の文化財
・ 本社-文化3年-隅木入春日造、桁行3間、梁間2間-国指定重要文化財
・ 幣殿-文化3年-両下造、桁行3間、梁間2間-国指定重要文化財
・ 拝殿-文化3年-入母屋、千鳥破風、唐破風向拝-国指定重要文化財
・ 国祖社-享保年間-入母屋、妻入、唐破風向拝-国指定重要文化財
・ 額殿-文化11年-入母屋、外壁吹き放し、舞台風-国指定重要文化財
・ 双龍門-安政2年-一間一戸・四脚・4方向軒唐破風-国指定
・ 神楽殿-明和元年−正面唐破風・背面切妻-国指定重要文化財
・ 神幸殿-安政6年−2×3・入母屋・妻入-国指定重要文化財
・ 随神門-弘化4年−八脚単層門・入母屋・銅瓦棒葺-国指定
・ 矢立の杉-推定樹齢千年、樹高55m、幹周9.4m-国指定天然記念物
・ 鉄燈籠-元享3年-芳十光長作、沙弥願智奉納-群馬県指定重要文化財
・ 関流算額(1面)-文化8年-石田玄圭一門奉納-群馬県指定重要文化財
・ 榛名神社文書(10点)-留守所下文など-群馬県指定重要文化財
・ 榛名神社神代神楽-男舞22座、巫女舞14座-群馬県指定無形民俗文化財
・ 神宝殿(三重塔)-明治2年-高さ16m、三間四方-高崎市指定重要文化財
・ 萬年泉碑-元文4年(1739)-高崎市指定重要有形民俗資料
・ 天神峠の石燈籠-文化2年塩原太助寄進-高崎市指定重要有形民俗資料
・ 榛名神社九折岩・鞍掛岩-古来からの信仰の対象-高崎市指定名勝
・ 榛名山番所跡-信州大戸通りの裏往還の番所跡-高崎市指定史跡
・ 榛名山岩脈−高崎市指定天然記念物
・ キヨスミコケシノブ自生地−高崎市指定天然記念物
・ 天然ヒノキの群落−高崎市指定天然記念物
榛名神社の祭神
・ 主祭神-火産霊神(火の神)・埴山姫神(土の神)
・ 合祭神-水分神.高おかみ神.闇おかみ神.大山祇神.大物主神.木花開耶姫神
榛名神社の御利益
・ 天下泰平・国家安穏・鎮火・開運・家内安全
・ 五穀豊饒・商売繁昌・縁結び・安産
榛名神社:上空画像
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