伊香保神社

  群馬県:歴史・観光・見所>伊香保神社(上野国十二社:三宮)

概要・歴史・観光・見所

【 歴史・由来・概要 】 伊香保神社は伊香保温泉(群馬県渋川市伊香保町伊香保)の温泉街最上部、石段(階段)の登り切った地に鎮座している神社で、創建年は諸説ありますが由緒によると平安時代の天長2年(825)に勧請されたのが始まりとされます。当初は榛名山(上毛三山の1つ:標高1449m)周辺の山々の神である「いかつほの神」を祀り、鎮座地も現在の三宮神社(群馬県北群馬郡吉岡町大久保に鎮座、現在は伊香保神社の里宮、当時は榛名山を御神体とする遥拝所だったとされます。)や若伊香保神社(群馬県渋川市有馬に鎮座、当初はこの地で祀られ、三宮神社に遷座、その後伊香保温泉に遷座したと伝えられています。)境内にあったと推定されています。境内の案内板に記載されている御由緒沿革によると垂仁天皇元年(293)に勧請され、承和2年(632)に名神大社の社号を賜ったとしています。

【 ポイント 】元々の祭神である「いかつほの神」とは一体どの様な神様なのだろうか。「雷の峰神」と書いたとも云われるそうですから、雷神が関係があるのかもしれません。実は榛名山の上空は日本有数の雷発生地として知られ、雷(いかずち)の山、すなわち「いかつほ」と呼ばれていました。榛名山の山麓には雷神を祭神とする神社が明治時代に多くの神社が合併する前には数百に上り正に雷信仰のメッカのような地域だった事が判ります。特に伊香保神社は上野国三宮で、名神大社だった事から、本来、雷信仰の中心とも言える存在だったのかも知れません。

一方、南北朝時代中期に安居院唱導教団の編纂により成立したとされる「神道集」によると(7巻 : 上野国一宮事、蟻通明神事、橋姫明神事、玉津島明神事、上野国勢多郡鎮守赤城大明神事、上野第三宮伊香保大明神事、摂津芦刈明神事。)、伊香保姫(後の伊香保神社の祭神)は、上野国二宮である赤城神社の祭神である赤城大明神の妹神で、上野国国司高光中将の妻となり一人の姫を出産したそうです。

その後、伊香保姫を、新たに国司となった大伴大将が奪おうとした為、高光中将と家臣である伊香保太夫が応戦したものの、苦戦し、高光中将の姿も見えなくなりました。伊香保太夫は都に上り帝に上奏すると、伊香保姫が国司、娘は上京する事となり、伊香保山の麓には高光中将の菩提を弔う為に寺院が創建され中将縁の千手観音像を本尊として迎えました。

その後、高光中将の甥である恵美僧正が別当の代に水沢寺(群馬県渋川市)に寺号を改称し、年が流れたある日、伊香保姫が伊香保沼に身を投げると、恵美僧正の霊夢に姫が伊香保大明神として立ち、水沢寺の守護神になると告げて姿を消しました。光仁天皇の御代、当時の国司柏階大将知隆は伊香保山で狩りを行い散々山を荒らし、殺生を禁じている水沢寺の境内に鹿を追い込み射殺すると、水沢寺の僧侶達は、鹿を国司に還さず供養した事から、国司は水沢寺に兵を差し向け寺を焼き討ちにしてしまいました。

恵美僧正はこの愚行を帝の申し上げると国司は佐渡島に流罪となりましたが、伊香保大明神は烈火の如くお怒りになり、周辺の山の神を集めて石楼を築き、そこに国司を閉じ込め灼熱地獄の苦しみを与えたそうです。伊香保大明神は男神と女神の2神があり、男神は伊香保温泉の守護神として温泉街(現在の伊香保神社)に鎮座し本地仏を薬師如来とし、女神は麓の三宮(現在の三宮神社)に鎮座し本地仏を十一面観音としたと記載されています。

伊香保神社:上空画像

【 ポイント 】元々の祭神は榛名山上空に発生した雷を信仰の対象とした「いかつほの神」だったものの、温泉街の守護神として勧請された事で、温泉神でもある大己貴命と少彦名命に祭神が変更になったようです。変更の時期は「神道集」を信じれば光仁天皇の御代という事になる為、宝亀元年(770)から天応元年(781)という事になりますがどうでしょうか。伊香温泉は天平年間(729〜749年)に行基菩薩が開湯したとの伝説が伝わっている事から8〜9世紀頃の出来事のような印象を受けます。

【 伊香保神社の格式 】-伊香保神社は格式が高く、貞観11年(869)に編纂された続日本後紀では貞和2年(835)に名神に列し貞和6年(839)に従五位下、延喜元年(901)に編纂され日本三大実録によると貞観9年(867)に正五位下、貞観11年(869)に正五位上、貞観18年(876)に従四位下、元慶4年(880)に従四位上に列し上野国交替実録帳(長元3年:1030年頃に編纂された上野国における国司交替の際の公文の草案)や平安時代に編纂された上野国明神帳では正一位として記載されています。

延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社として上野国十二社中、貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)、赤城神社(群馬県前橋市三夜沢町・前橋市二之宮町・前橋市富士見町赤城山)に次ぐ三宮の格式を得ています。

三宮神社が伊香保信仰の中心だった時代には周辺の領主である有馬氏が庇護し社運も隆盛したそうですが有馬氏の勢力衰退ともに影響力は低下、平安時代末期に現在地に伊香保信仰の山宮を創建し温泉街の鎮守(伊香保神社)となったそうです。

中世以降は神仏習合し別当寺院として温泉寺が祭祀を執り行いましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され社号も「湯前大明神」から「伊香保神社」に改め、明治6年(1873)に県社兼郷社に列しました。現在の伊香保神社主祭神は大己貴命と少彦名命の二座で、医療や縁結び、子授け(子宝)、安産などに御利益があるそうです。

【 伊香保神社の社殿 】-伊香保神社拝殿は木造平屋建て、切妻、銅板葺、平入、桁行4間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社神明造、銅板葺、四方浜縁、高欄付き、外壁は真壁造り板張り。幣殿は両下造、銅板葺き、外壁は真壁造り板張り。

伊香保神社境内にある石灯籠は明治15年(1882)に群馬県下新田郡安久津(現在の尾島町)出身の白石栄左衛門が天保4年(1833)から50年にわたり伊香保温泉に60回入湯した事を記念して建立したもので、当時の交通事情や経費から考えると如何に伊香保温泉が庶民から愛されている事が偲ばれる資料として貴重な事から平成8年(1996)に渋川市指定史跡に指定されています。

境内には白眼台雪才が安永7年(1778)に建立した「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」の芭蕉句碑があります。

【 伊香保神社掲額事件 】-江戸時代後期の文政5年(1822)、北辰一刀流創始者千葉周作が上州一の剣豪とうたわれた馬庭念流の小泉弥兵衛を破ると、多くの人々が千葉周作の門弟となり、その門弟達が北辰一刀流の額を伊香保神社に奉納しようとしたところ、馬庭念流一門5百名と、関係者や馬庭念流から依頼されと思われるやくざ、猟師が額の奉納阻止の為集まり一触即発の状態となりました。

馬庭念流の当代樋口定輝は争乱を防ぐ為に奔走しましたが、それが逆に事態悪化を招き、結局、村役人の木暮武太夫や代官所が仲裁し千葉周作が上州から去る事で決着を見ました。

周辺駐車場マップ

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


伊香保神社:ストリートビュー

伊香保神社:社殿・石段参道・写真

伊香保神社境内入口に設けられた木製(白木)の鳥居
[ 付近地図: 群馬県渋川市伊香保町 ]・[ 渋川市:歴史・観光・見所 ]
伊香保神社拝殿正面と向拝に吊り下げられている提灯 伊香保神社本殿と幣殿と透塀。本殿はシンプルな意匠です。 伊香保神社の境内に建立されている石灯篭 伊香保神社境内から見下ろした参道と門前町(温泉街)
伊香保神社:周辺・観光・見所
伊香保神社
伊香保神社には湯治客がたくさん参拝きます。
伊香保神社
呑湯道標
湯元呑湯道標はさり気なく建立されています。
湯元呑湯道標
公使別邸
旧ハワイ王国公使別邸は派手さはありませんが解放的な建物です。
ハワイ公使別邸
河鹿橋
河鹿橋は紅葉の名所となっています。
河鹿橋
千明元屋敷
千明元屋敷跡は繁栄していた当時を思い起させます。
千明元屋敷跡
御関所
伊香保御関所(口留番所)の建物は再建されたものです。
伊香保御関所
湯元呑湯
湯元呑湯は伊香保温泉の源泉の一つです。
湯元呑湯
芭蕉の句碑
芭蕉の句碑(伊香保神社)
芭蕉の句碑
石段街
温泉街:写真
石段街・写真
 
白
 


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