小祝神社

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【 小祝神社・縁起・由来・由緒 】 小祝神社(読み方:オボリジンジャ)は群馬県高崎市石原町(上野国片岡郡)に鎮座している神社です。創建年は不詳ですが周辺には数多くの古墳が点在している事から当時の豪族の氏神だったとも、御神体が石である事から自然崇拝が源泉だったとも考えられます(三島塚古墳の案内板によると石原、寺尾地区で76基の古墳が確認されたとあります)。

記録的にも古く延喜元年(901)に編纂された日本三大実録によると元慶4年(880)には正五位上が贈られ、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳には式内社、平安時代に上野国(群馬県)の有力神社を列記した上野国神名帳には「正一位小祝明神」、神道集には上野国十二社の第七社(七宮)として記載されています。

名称
場所
形式
規模
築造年代
備考
三島塚古墳高崎市
石原町
円墳直径58m,高さ5.5m5世紀前半市史跡
石原稲荷塚古墳高崎市
石原町
円墳直径30m,高さ7m6世紀後半 
桜塚古墳高崎市
石原町鶴辺
円墳直径21.6m,高さ6.9m7世紀市史跡
第201号古墳高崎市
石原町鶴辺
円墳直径13.5m,高さ8.1m不明 
−古墳高崎市
石原町中石原
円墳直径10m,高さ2.5m不明 

【 ポイント 】ここでの見所はやはり彦狭島王の墳墓との伝説が残る三島塚古墳です。彦狭島王は古代の皇族の一人で、日本書紀によると東山道十五国都督に任ぜられ、赴任地に下向した際、春日の穴咋邑で病死し上野国に葬られたと記しています。信憑性が薄く取り扱い注意なものの、先代旧事本紀と国造本紀によると東方十二国を平定し上野国造に任ぜらたと記されています。

日本書紀では景行天皇55年の記事である事から中々年代を特定するのが難しいのですが、Wikipediaの上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧によると西暦125年になる為、古墳の築造年代である5世紀初頭とは大きく異なります。

まあ、景行天皇の実在性を疑問視する歴史の専門家も多く、息子である日本武尊も3世紀から4世紀の人物という説もある事から事実としてもかなり時代が下がるのかも知れません。何れにもしても、小祝神社周辺にある古墳とは密接な関係があった可能性が高いと思われます。

ただし、彦狭島王の墳墓と伝わる古墳は全国に複数あり、小祝神社の祭神である少彦名命と彦狭島王の祖神が豊城入彦命である為、小祝神社と彦狭島王との関係性は薄いと考えるのが妥当と思います。

一般的には三島の名称は古墳の頂部に三島神社が鎮座している事が起因として考えられていますが、少彦名命の関連氏族の中には三島県主がいる事から、三島県主の一族が古墳の被葬者で、祖神として少彦名命を祭る小祝神社を奉斎し、後の世に名称が同じという理由で三島神社が勧請されたという考え方も出来ます。

【 ポイント 】境内から見て南西方向に位置する小坂山も当社と関係があるとの指摘もあります。標高は181.61m程の低山ですが円錐形をしており、その北東麓に三島塚古墳が築かれているのも興味深いところです。小坂山は元々「魚坂山」や「御肴山」とも呼ばれている事から、山中で採れる動植物が当社に捧げる「御肴」だった可能性もあります。

【 小祝神社と領主 】−以来周囲の産土神として民衆から信仰され歴代領主からも崇敬され社運も隆盛しましたが天文年間(1532〜1555年)の兵火により多くの社殿、社宝、記録などが焼失し一時衰退します。衰退は大きく江戸時代には石祠が祭られていた程度になっていたものの、江戸時代中期の正徳年間(1711〜1715年)に笠原豊前(武藏五社の祝人)が再興し高崎藩安藤対馬守重信や間部越前守詮房の崇敬社となりました。

古くから神仏習合し江戸時代には「小祝大明神」と呼ばれ、本地仏として薬師如来(「神道集」では文殊菩薩)を奉斎し別当寺院として石昌寺が担っていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され明治5年(1872)に郷社、明治42年(1909)に神饌幣帛料供進神社に指定されています。

祭神は少彦名命。合祀神:速玉男命、,大日ルメ命、五十猛神、健御名方神、大國主神、譽田別命、伊弉册命、宇氣母智神、倉稻魂神、大名持神、大山祇命、八衢姫命、菊理姫命、軻遇突智命、八衢彦神、久那止神、市杵嶋姫命、事解男命、素盞嗚命、菅原道眞。

【 小祝神社の社殿 】−現在の本殿は享保5年(1720)に当時の高崎藩主間部越前守詮房により造営されたもので三間社入母屋造り(桁行3間、梁間3間)、銅板葺(元檜皮葺)で正面には3間の向拝付き、外壁は真壁造り板張り、四方浜縁、高欄、脇障子付き、内部は正面2間分が寺院建築でいう外陣、後ろ1間分が内陣で構成され、内陣には厨子が設置され祭神が祭られています。

又、背面には寺院建築で見られる花頭窓を模した意匠も見られ神仏習合時代の名残が見られます。建物は全体が極彩色で彩られ、壁面に彫刻したパネル状のものを嵌めこむといった工法を用いいます(この工法の神社建築としては高崎市最古)。小祝神社本殿は江戸時代中期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から、享保元年(1716)棟札と享保2年(1717)奉納額と享保4年(1719)寄進銘とともに平成14年(2002)に高崎市指定重要文化財に指定されています。

小祝神社拝殿は明治23年(1890)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、正面千鳥破風、平入、桁行4間、張間2間、正面1間軒唐破風向拝付き(唐破風懸魚には神亀に乗った仙人を模した精緻な彫刻、向拝木鼻には獅子)、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、三方浜縁、高欄、脇障子付、唐破風には「正一位小祝大明神」の扁額が掲げられています。幣殿は両下造り、銅板葺き、桁行1間、張間1間。神楽殿は入母屋、桟瓦葺き、妻入り、外壁は柱のみの吹き放し、例祭である4月と10月には神楽が奉納されています。

【 小祝神社と芭蕉句碑 】−境内には芭蕉句碑があり「 しばらくは 花の上なる月夜かな 」と記されています。この句は松尾芭蕉が貞享5年(1688)、48歳の時に発した句で、貞享4年10月25日から貞享5年4月23日まで、父親の33回忌法要の為、故郷である伊賀に帰郷した際に発句したものを編纂した「笈の小文」に収められています。概ね「満開に咲き誇る花の上に月が登った。その月明かりで少しの間、花見が出来そうだ。」といった意味らしく、逆に言えば、「花が満開の月夜が明かるい瞬間だけしかこの美しい光景を見る事が出来ない」、とも取れるようです。何故、この句が選択され、小祝神社に奉納されたのか勉強不足の為不詳。

【 小祝神社と石昌寺 】−小祝神社の別当寺院である石昌寺の創建は江戸時代初期の寛永年間(1624〜1643年)に松月道青によって開かれたのが始まりと伝えられています。ただし、小祝神社は少なくとも平安時代には存在し、神仏習合していたと推察すると石昌寺の前身寺院か全く異なる寺院が別当職を司っていた可能性が高く、石昌寺の案内板にも由緒不詳となっています。

古代の小祝神社は信仰の広がりがあったようで、「上野国神名帳」には当社以外に群馬県高崎市引間町に鎮座している「従三位息災寺小祝明神」と、群馬県高崎市冷水町字川窪に鎮座している「従四位上小祝明神」が記載されています。

息災寺は霊亀元年(715)に上野国大掾藤原忠明によって創建されたと伝わる古寺で「萩花園星神記」や「続日本紀」にも存在が明記されている事から中央にも聞こえる存在だったと思われます。当社を奉斎していた氏族が上野国府と強い繋がりがあり、息災寺(現在の引間妙見寺)の鎮守社として分霊が勧請されたと推察されています。息災寺と小祝神社の別当寺院との関係は判りませんが上野国府との関係性が窺えます。

正徳2年(1712)、当時の石昌寺住職(四世)である亮珍が小祝神社の荒廃を憂い再興を計画するものの財力的に石昌寺も困窮していた事から高崎藩(藩主:間部越前守詮房)にも支援を懇願し、藩が管理する山から松材と石材の採取許可を会得しています。天保2年(1831)、又は天保12年(1841)のどちらか一方と明治40年(1907)に火災により大きな被害を受けています。山号:常倍山。院号:南光院。宗派:天台宗。本尊:阿弥陀如来。

高崎市:神社・仏閣・再生リスト
小祝神社:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ


小祝神社:ストリートビュー
小祝神社正面にある石造の大鳥居(台輪鳥居)
[ 付近地図: 群馬県高崎市石原町 ]・[ 高崎市:歴史・観光・見所 ]
小祝神社石灯篭と参道の石畳。隣は幼稚園のようです。 小祝神社社号標(石造)と格式の高い立派な拝殿。ややこってとしたフォルムで高さと間口の比率を大きくした方が良かったかも。 小祝神社拝殿正面に設けられた向拝。やはり向拝懸魚の彫刻が秀逸です。 小祝神社本殿と極彩色に彩られた様々な彫刻。大型の本殿は迫力があります。
独り言

小祝神社境内は思ったよりもこじんまりしており、樹木も少なく明るい印象を受けます。社殿は高崎藩主間部越前守詮房が造営した事もあり細部の彫刻や極彩色の色彩など権力者の威厳が感じられます。元々の信仰の源は判りませんが磐座と思われる小岩が信仰の対象となり「小岩→小祝(コイワイ)」になったのかも知れません。まぁ一般的には神職や神官が「大祝=オオホリ」と呼ばれた事から、それに因んだ役職「小祝」とも考えられます。元々は小祝は「オハフリ」と呼ばれ、その「ハフリ」は神職の名称の一つで祝部(はふりべ)とも呼ばれていた事は判りますが、何故社号として掲げているのかは良く判りません。態々役職の名称を社号にする必然性は無いと思いますが、当地を支配した豪族が神社の神事を関わる役職を担う氏族だったのかも知れません。周辺に小規模ながら数多くの古墳があるのも興味深く、三島塚古墳が5世紀前半に築造されている事から、神社として成立したのも5世紀まで遡るかも知れません。



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