沼田市: 天桂寺

  群馬県:歴史・観光・見所沼田市:歴史・観光・見所>天桂寺

概要・歴史・観光・見所
天桂寺(沼田市)概要: 天桂寺は群馬県沼田市材木町天桂寺境内を流れる「すすみ川」に境内を構えている曹洞宗の寺院で、室町時代中期に開山、真田沼田領2代当主真田信吉の菩提寺として知られています。信吉は初代となる真田信之(上田藩主、松代藩主)と大蓮院殿(小松姫)の長男として生まれ、慶長19年(1614)大坂冬の陣と慶長20年(1615)の夏の陣には病症だった信之の代りに徳川方として参陣し、冬の陣では2千名を率いて母方の生家である本多忠朝隊に入り、夏の陣では2千3百名を率いて井伊直孝に入りました。特に夏の陣が激戦とされ豊臣方の主力の一角である毛利勝永隊と交戦し25名前後討ち取ったものの、35名前後を討ち取られ、家臣の1人が信吉の身代となった銃弾を受けるなど事実上敗退しています。元和2年(1616)、信之が藩庁を沼田城から上田城(長野県上田市)に移すと沼田領3万石の領主となり、沼田用水の整備などを行っています。寛永11年(1634)11月28日江戸屋敷で死去、遺骸は迦葉山弥勒寺に運ばれ火葬され、菩提寺である天桂寺に葬られました。寛文6年(1666)に真田信利の命により舒林寺を現在に遷し、跡地に天桂寺の境内を遷し堂宇の造営しています。享年40歳、戒名「天桂院殿前河州大守月岫浄珊大居士」。

天桂寺本堂は入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、屋根には真田家の家紋である六文銭が掲げられています。天桂寺の鎮守社である豊川稲荷は荼枳尼天が祀られ、入母屋、桟瓦葺、平入、正面1間向拝付。境内に建立されている「味噌なめ地蔵(天桂寺では閻魔と奪衣婆を模した石仏)」は300年以上前に建立されたと伝わるもので自分が病んでいる場所と、地蔵の同じ場所に味噌を塗ると不思議と完治、又は病が和らぐと云われています。真田河内守信吉の墓は貴重な事から昭和51年(1976)に沼田市指定重要文化財に指定されています。山号:月宮山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

【 天桂寺菩提者:真田信吉 】-真田信吉は慶長2年(1597)、沼田領主真田信之の長男として生まれています。生母は信之の側室と思われる真田信綱(真田幸隆の長男)の娘説と正室である小松姫(大蓮院:本多忠勝の長女)説があります。これは、信吉が長男であるにも係わらず本領ではなく、沼田領(群馬県沼田市・本城:沼田城)3万石を与えられた事から側室の子供であったのではと推測されています。ただし、これは昌幸(信之の父)が上田城(長野県上田市)にいたのに対して信之が沼田領主だった関係に似ている事から、それ程深い意味ではなかったかも知れません。又、小松姫の子供と思われる弟の信政も側室の右京(出生不明)の子供説があり何とも言えません。

真田信吉と信政が信之より早死にし、本来であれば信吉の息子である真田信利が本領(松代藩)を継ぐはずが信政の5男で幼少だった幸道が継いだ事も血脈に関係したのかも知れません(信利はこの処置を不服として御家騒動にまで発展、幕府の裁定により沼田藩主になるも、松代藩への羨望から悪政となり改易されています)。信吉は寛永11年(1634)、疱瘡によって江戸屋敷で死去、遺骸は沼田の迦葉山弥勒寺に運ばれ火葬され菩提寺である天桂寺(沼田市)に葬られました。又、長男である熊之助が幼少で沼田領を引き継ぎましたが寛永15年(1638)、享年7歳で死去し天桂寺境内に葬られたとも云われています(一般的には利根郡みなかみ町新巻に玄香院を創建し葬られたとも、江戸神田の吉祥寺に葬られたとも云われています)。天桂寺の境内には真田河内守信吉の墓が建立されており沼田市指定文化財に指定されています。

天桂寺:写真

天桂寺境内から見た本堂正面と
[ 付近地図: 群馬県沼田市 ]・[ 沼田市:歴史・観光・見所 ]


※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「群馬県:歴史・観光・見所」は「群馬県の歴史」、「郷土資料辞典−群馬県」、「日本の城下町−関東(一)」、「城郭と城下町−関東」、「パンフレット」、「案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。※プライバシーポリシーはこちらです。