・新田館が何時頃築かれたのか、城主が誰だったのかは不詳ですが、鎌倉時代の世良田は新田荘の中心的な存在で、館の規模等から新田家の惣領家の居館だったと推定されています。
一説には源義家の三男源義国の嫡男である源義重が摂関家領である上野国八幡荘継承し、上野国新田郡の開拓事業を行った際に設けられたとも云われています。
義重は地名に因み「新田」姓を掲げ、源氏一族の中では上位だったものの源頼朝とはやや距離をとっていた事もあり、次第に地位を落とし軽視されるようになっています。
「吾妻鏡」に建久4年4月28日、源頼朝が那須野と三原で狩をした帰りに式部大夫入道上西(新田義重)の新田館で遊覧したと記されており、この新田館は当地の事とも云われています。
義重は晩年に、4男の新田義季の居館で暮らしたとの説がある事から義季の居館だった可能性もあります。
建仁2年に義重が死去し、喪が明ける前に2代将軍源頼家が蹴鞠に興じた事から北条政子から叱責されています。
義重の曾孫に当たる新田政義は幕府や朝廷に無許可で出家し、京都大番役を退任し新田荘に退去した事から、新田家の惣領家を剥奪され、庶流に当たる世良田義季と岩松時兼等が継ぐ事になりました。
義季は長男である得川頼有に得川郷、次男である世良田頼氏に世良田郷を継がせた事から、頼氏が新田館を築いたとの説があります。
又、新田館跡地に境内を構えている総持寺には、新田義貞像と云われている木像が伝わっている事から新田義貞の居館だったとの説があり、元弘3年に鎌倉幕府執権北条高時から、莫大な軍資金を強要され、使者として派遣された御内人黒沼彦四郎は、当館で切り捨てられとも云われています。
何れにしても、明確な資料が無く、正確な館主は不詳となっています。
新田館は早川を内堀と見立てた東側に方200m余りの主郭、西側にその四分の一程度の複郭で構成されており、郭に沿って土塁と堀が廻っていたと推定されています。
現在は堀と土塁等の遺構は失われたものの、郭の形状と道路の地割が良く似ている事から、近代までそれらが継承されていたのかも知れません。
新田館の一角にある総持寺の境内は「新田荘遺跡:総持寺境内」として国指定史跡に指定されています。
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