・江田館は承元年間に江田頼有が築いたと伝えられる中世の居館です。
江田氏は清和源氏の新田家一族である世良田氏の支流とされ、新田義重の4男義季が世良田郷を譲られ、地頭になった事から、一族である江田氏もその一翼を担ったと思われます。
南北朝時代の館主と目される江田行義は惣領家である新田義貞に従い、元弘3年に義貞が鎌倉幕府討幕へ挙兵すると鎌倉へ従軍しています。
行義は鎌倉七口のひとつ極楽寺坂切通方面の大将を同族である大舘宗氏と共に担っており、信任の高さが窺えます。
極楽寺坂の戦いでは幕府方で執権北条氏一門の大仏陸奥守定直が大将として守備しており、激戦の末、宗氏が討死する等苦戦を強いられています。
結局、新田勢は極楽寺坂口からの鎌倉侵攻を諦め、稲村ヶ崎から鎌倉に侵入し幕府打倒を果たしています。
南北朝の動乱では南朝の主力となった新田勢の中核となり、延元元年には足利尊氏追討の為、大舘氏明と共に中国地方に出兵、北朝方の赤松則村に勝利したものの、湊川合戦で足利勢に敗北しています。
その後も、南朝方である一方で、義貞率いる主戦派とは距離を取り、和平派として行動したものの、高山城の攻防戦以降は消息不明となっています。
因みに江田一族は備後国で帰農し姓も「守下」に改めたとされ、文禄年間に10代目守下大膳が再び世良田郷に移転したと伝われています。
一方、江田館は領主である由良氏が管理下に置いていたと見られ、戦国時代には本城の金山城の支城として拡張整備が行われ、由良家四天王に数えられた矢内四郎左衛門が配されています。
天正年間に小田原北条氏の侵攻により江田館はあえなく落城、当館を拠点として金山城に侵攻しています。
結局、由良氏は北条家に下った為、引き続き北条家が管理していたと思われますが、天正18年の小田原の役で、北条家が没落すると、当館も廃されたと思われます。
江田館は東西約80m、南北約100mの方形で、周囲を深い堀と高い土塁で囲い、南側と東側には虎口が設けられています。
東側と西側の土塁は大きく折れ曲がっており侵攻していくる敵を側面から迎撃出来るような工夫が見られます。
江田館の跡地の隣地には毛呂屋敷や柿沼屋敷、黒澤屋敷等の字名が残され、それに対応するような地形になっている事から、家老級の家臣屋敷が郭の形状で複数存在し、それらが一体化した城郭だったとも考えられます。
現在も土塁や堀、郭の形状の保存状態がよく、当時の姿を留め大変貴重な事から名称「新田荘遺跡」として国指定史跡に指定されています。
群馬県:城郭・再生リスト
|