【 概 要 】織田信久は寛永20年(1643)に宇陀松山藩(奈良県宇陀市大宇陀)の藩主である織田高長の4男として生まれました。慶安3年(1650)、小幡藩2代藩主織田信昌が危篤になると末期養子となり、死去に伴い小幡藩3代藩主に就任しています。
詳細な記録は残されていませんが現在甘楽町の中心に流れる雄川堰は信久の実績とされ、小幡藩の藩庁が置かれた小幡陣屋(群馬県甘楽町)の外堀になると共に陣屋町の飲料水や下流領域の灌漑用水としても利用され、新田開発や農作物の生産性向上に大きく寄与しました。
小幡陣屋は信昌の代に概ね完成していたようですが、信久の時代にも引き続き工事が行われたようで、寛文6年(1666)に大手門が竣工しています。
社寺の保護については中之嶽神社(群馬県下仁田町)を篤く信仰し小幡藩の社寺奉行に命じて社殿の改築を行っています。
元禄元年(1688)には廃寺だった崇福寺を再興し小幡藩織田家の菩提寺だった宝積寺から3代の墓碑を遷して崇福寺を菩提寺としています(個人的な見解としては、元々、織田家宗家の菩提寺と同じ寺号の寺院が存在し、廃寺になっていたとは考えにくく、廃寺だった寺院を再興し寺号を織田家宗家の菩提寺に因み「崇福寺」に改めたのではないかと思います)。信久は養子という事もあり先代までの考え方と異なる思考をもっていたのかも知れません。
正徳4年(1714)死去、享年72歳、戒名:凌雲院殿嶮巌維峻大居士。
同時代に編纂されたと思われる「土芥寇讎記」によると織田信久に対しての評価は低く、信久は軍学者を招いて兵術論を聞き武道に関しては一生懸命だが、文道は学んでいるものの気が入っていないようだ。外見は着飾ているが内面が成っていないと聞き及んでいる。行跡をみると広々と一見作法にかなった立居振舞をしているようだか、内心は大変心がねじ曲がっている傾向に見られる、と評しています。その他にも美女が好きで遊楽酒宴を行った旨も記されています。
上記の評価が正しいかは判りませんが、信久は雄川堰などの灌漑整備を行う事で新田開発が進み石高自体は増収傾向にあったにも関わらず、税率もじわじわと上げ続け、労役も課した事から領内の農民がかなり不満を募らせていました。
元禄12年(1669)には八城村の名主藤右衛門を中心とする小幡領14ヶ村8名が江戸に向かい幕府の老中に対して織田信久の行いを訴えるという事件が発生しました。
実際、信久の施政下で税率は1.5倍に膨らみ、元禄7年(1694)には中山道の宿場町である坂本宿の大助郷に任ぜられ、さらに本来農家の貴重な副収入源である真綿や大豆、萱、苧殻、薪、紙、小麦などにも税を加えた事で、14ヶ村は小幡藩から離脱し天領に組み込んで欲しいと嘆願しました。
結局、天領にはならなかったものの、年貢は1割定免、救助金貸与、掛物3ヵ年免除を勝ち取っています。
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