進雄神社(高崎市)概要: 進雄神社は群馬県高崎市柴崎町に鎮座している神社です。進雄神社の創建は平安時代の貞勧11年(869)、清和天皇(第56代天皇・在位:天安2年858年〜貞観18年876年)の勅掟によって尾州の津島神社(愛知県津島市)の分霊を勧請し、当時全国的に蔓延していた疫病の快癒を祈願したのが始まりと伝えられています。
歴代領主や時の権力者から崇敬され天喜5年(1059)には前九年合戦の折、源頼義が進雄神社を訪れ戦勝祈願したところ見事念願成就したことから社殿を修復と社領の寄進が行われたそうです。戦国時代になると上野国は箕輪城の城主や上杉氏、武田氏、小田原北条氏などの大大名が立ち代りこの地を治めたこともあり各領主達は戦勝祈祷文書を進雄神社に奉納し戦勝祈願し社家に対し社領の安堵や寄進をしています。
江戸時代に入ると歴代高崎藩(藩庁:高崎城)の藩主に崇敬され、寛永11年(1634)には3代将軍徳川家光より30石の朱印状が行われています。古くから神仏習合し、牛頭天王宮や天王宮と称していましたが、明治初頭に発令された神仏分離令で仏式が排され進雄神社に改称し郷社に列しました。明治2年(1868)には高崎五万石騒動の舞台にもなり、騒動を起こした4千人の農民が進雄神社の境内に集まっています。
進雄神社の社宝である高井家文書19通(※ 高井家は進雄神社の神職。)は歴代領主である上杉憲政(山内上杉家15代当主、関東管領)や北条氏康(小田原城の城主)、和田信業(和田城=高崎城の城主)、跡部勝資(武田勝頼の重臣)、北条氏邦(氏康の四男)、北条氏直(氏康の孫)などの社領安堵の書状や判物、印判状、由緒書、牛頭天王宮縁起などで構成されているもので、当時の歴史を知る上で貴重な事から昭和46年(1971)に高崎市指定重要文化財に指定されています。
進雄神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺き。神楽殿は入母屋、桟瓦葺き、妻入、外壁は正面3方が柱のみの吹き放し。祭神は速須佐之男命、配祀は稻田比賣命、その他には明治時代中期に周辺の集落の産土神24社が合祀されています。
進雄神社:上空画像
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