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進雄神社(高崎市)概要: 進雄神社は群馬県高崎市柴崎町に鎮座している神社です。進雄神社の創建は平安時代の貞勧11年(869)、清和天皇(第56代天皇・在位:天安2年858年〜貞観18年876年)の勅掟によって尾張国海部郡津島(現在の愛知県津島市)の津島牛頭天王社(現在の津島神社)の分霊を勧請し、当時全国的に蔓延していた疫病の快癒を祈願したのが始まりと伝えられています。
歴代領主や時の権力者から崇敬され天喜5年(1059)には前九年合戦の折、源頼義が進雄神社を訪れ戦勝祈願したところ見事念願成就したことから社殿を修復し、社領の寄進が行われたそうです。
戦国時代になると箕輪城の城主や越後上杉氏、甲斐武田氏、小田原北条氏などの大大名が立ち代り当地を治めたこともあり、各領主達は戦勝祈祷文書を進雄神社に奉納すると事で戦勝祈願を行い、神官家に対し社領の安堵や寄進をしています。
神官家である高井左衛門太夫家は弘安年間(1278〜1288年)に当地に土着し、宝徳元年(1449)から神官に就任したと伝えられる旧家で、元々当地を治める土豪でもあった事から、進雄神社の境内全域は高井家の居館でもあり、周囲を土塁と堀で囲って敵からの攻撃に備えていました。
高井家は戦国時代に和田城の城主である和田業繁に与し、永禄9年(1566)には高井左衛門が和田城に入り、関東に進出してきた上杉勢の撃退に尽力しています。
当地が武田領となると、高井家は武田家と対立したようで、天正8年(1580)に武田勝頼の命により、当時の当主である天王佐衛門太夫高井行重は進雄神社の神職を解任となっています。
代わって進雄神社の神官には武田家に従ったと思われる伊藤太夫が就任しています。
伝説によると伊藤太夫が進雄神社の神官になると、神楽の際に被る御面が夜な夜な御神木に飛び移り、口から炎を吐き、御神刀は大蛇に変化し、寝室の天井を這いまわった為、一睡も出来なかったそうです。
伊藤太夫は祭神の祟りと悟り、神楽の御面と御神刀を傷つけ近くの丘に埋めた後に、当社から逃げ出した為、再び高井行重が進雄神社の神官に就任しています。
行重は御面と御神刀を掘り出し、そこに杉の苗木を植えると、不思議とねじれた幹になった事から「神楽塚の不思議な捩れ杉」と呼ばれるようになったと伝えられています。
リメイク版
江戸時代に入ると歴代高崎藩(藩庁:高崎城)の藩主に崇敬され、寛永11年(1634)には3代将軍徳川家光より30石の朱印状を賜っています。
古くから神仏習合し、牛頭天王宮や天王宮と称していましたが、明治初頭に発令された神仏分離令で仏式が廃され、それまで祀っていた牛頭天王と神道における同体であるとされる速須佐之男命の御霊を改めて勧請し、社号を進雄神社に改称しています。
明治2年(1868)には高崎五万石騒動の舞台にもなり、騒動を起こした4千人の農民が進雄神社の境内である天王の森に集まっています。
明治時代に入り周辺の多くの神社が合祀され、明治39年(1906)に神饌幣帛料供進社に指定、昭和6年(1931)に郷社に列しました。
進雄神社の社宝である高井家文書19通(※ 高井家は進雄神社の神職。)は歴代領主である上杉憲政(山内上杉家15代当主、関東管領)や北条氏康(小田原城の城主)、和田信業(和田城=高崎城の城主)、跡部勝資(武田勝頼の重臣)、北条氏邦(氏康の四男)、北条氏直(氏康の孫)などの社領安堵の書状や判物、印判状、由緒書、牛頭天王宮縁起などで構成されているもので、当時の歴史を知る上で貴重な事から昭和46年(1971)に高崎市指定重要文化財に指定されています。
又、進雄神社は疫病の快癒を祈願する為に創建したとの由緒から特に無病息災や病気平癒に御利益があるとして信仰を集めています。
進雄神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺き。神楽殿は入母屋、桟瓦葺き、妻入、外壁は正面3方が柱のみの吹き放し。
祭神は速須佐之男命、配祀は稻田比賣命、その他には明治時代中期に周辺の集落の産土神24社が合祀されています。
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