山名八幡宮

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概要・歴史・観光・見所

【 歴史・由来・概要 】 山名八幡宮は群馬県高崎市山名町に鎮座している神社です。山名八幡宮の創建の詳細は不詳ですが伝承によると山名義範が平安時代末期の安元年間(1175〜1177年)、又は鎌倉時代初頭の文治年間(1185〜1190年)に宇佐神宮(大分県宇佐市)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。

山名八幡宮を創建した山名義範は新田義重(源義家の孫。新田氏の祖。)の庶子(3男)として生まれ上野国多胡郡山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に配された事から地名に因み山名姓を名乗りました。

治承4年(1180)に源頼朝の挙兵に呼応し、治承8年(1184)には平家追討の源義経の軍に従軍しその功から北条時政・義時父子に次ぐ地位を確立し伊豆守に就任しています。

この時、領地が配分されたのは山名義範をはじめ源義経、大内惟義、足利義兼、安田義資、加賀美遠光の6人だった事から「平氏追討源氏受領六人」と呼ばれ、頼朝の同族衆の称号である「御門葉」となっています。その後も文治5年(1189)の奥州合戦にも従軍し頼朝の近侍となっています。

以来、歴代山名氏の崇敬社として庇護され往時は社運も隆盛し鎌倉街道から境内までは門前町(山名宿)が形成し大いに賑わっていたと伝えられています(宿坊が旅籠のような機能を果していました)。

又、南北朝時代、尹良親王(後醍醐天皇の孫)が当地に滞在した際、領主世良田政義の娘と恋仲となり懐妊、山名八幡宮で安産を祈願し見事男子(良王)が誕生した事から安産、子育に御利益があるとして信仰されるようになりました。

江戸時代に入ると歴代前橋藩(藩庁:前橋城)の藩主から庇護され、特に宝暦2年(1752)には酒井雅楽頭から社領二町七反一畝七歩が寄進され乗鞍一具の奉納を受けています。

山名八幡宮は古くから神仏習合し中世には中坊・遊城坊・福蔵坊・慶実坊・成田坊・角坊・梅本坊の7坊があり境内には阿弥陀堂が建立されていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、郷社に列しています。

祭神は玉依比売命、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神宮皇后)の3柱で古くから安産、子育て、養蚕、商売繁昌の守護神として信仰されています。鏑川七福神霊場:弁財天。

【 ポイント 】尹良親王については諸説ありますが「南朝編年記略」などによると応永5年(1398)に鎌倉の軍勢に追討され敗れた事で、逃避する事を余儀なくされ同年8月に群馬県高崎市寺尾町にある上野寺尾城に入城し世良田政義が迎え入れたようです。上野寺尾城では新田義隆や世良田有親に支援を受けたものの、応永10年(1403)に新田義隆が討死すると下野落合城(栃木県上三川町)に落ち延び、その後も信濃などで転戦したものの応永31年(1424)に自刃に追い込まれています。正直、どこまで本当の話か良く判りません。どうも歴史の専門家では尹良親王の実在すら疑問を持つ人の方が大勢を占めているようです。山名八幡宮の伝承はどっちなのでしょうか?

現在の山名八幡宮社殿は拝殿、幣殿、本殿が一体化した権現造、中でも本殿は江戸時代中期の明和年間(1764〜1771年)に再建された古建築物で、三間社流造、銅板葺き、背面千鳥破風、背面軒唐破風、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、建物全体が極彩色で彩られ東上州勢田郡上田沢村出身の彫物師関口文治郎が手掛けた、鳳凰、龍、獏、唐獅子など多くの彫刻が施されています。

幣殿は本殿と同時期の江戸時代中期に建てられたもので、両下造、銅板葺、間口1間、奥行3間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。山名八幡宮本殿・幣殿は江戸時代中期の神社社殿建築の遺構として貴重な事から平成7年(1995)に高崎市指定重要文化財に指定されています。

算額は明治18年(1885)に関流八傳岸幸太郎充豊が門下生279名と共に奉納し、序文一編と算題7問が描かれているもので、貴重な事から名称「山名八幡宮算額」として昭和50年(1975)に高崎市指定重要文化財に指定されています。

又、山名八幡宮の境内参道にある"たちわりの石"は案内板によると「 慶長5年(1600)高崎藩主井伊直政の許しを得て馬庭念流中興の祖、樋口定次が天真流村上天流と試合をするにあたり当社に神助を祈り参篭し21日目の満願の日、枇杷の木剣で断ち割ったと云われ、その後鳥川畔に於いて見事、天流を破った。」とあります。

【 ポイント 】上野国で隆盛した多胡郡馬庭村にあった馬庭念流の道場と常陸国出身の村上天流が高崎城の城下に開いた道場がお互いの優位性を主張しあい次第に対立が激化し門弟達の小競り合いが続きました。そこで、馬庭念流の師範樋口定次と村上天流が果し合いをする事になり、定次は日頃から信仰していた山名八幡宮に必勝祈願を行い、もしこの願いを聞き届けたのなら、この霊木から切り出した霊剣で大石を割らせて欲しいと願いました。定次は何の迷いも無く霊剣を振り下ろすと大石は見頃に2つに割れ、果し合いでも天流を打ち破る事が出来たと伝えられています。

山名八幡宮の神社山門(随神門)は切妻、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、社殿側の左右には随身像、正面には神馬が安置されています。拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り、唐破風懸魚には鳳凰、向拝木鼻には獅子の彫刻が施されています。

山名八幡宮:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ


山名八幡宮:ストリートビュー

山名八幡宮:本殿・幣殿・写真

山名八幡宮参道前に置かれた朱色の両部鳥居と石造社号標
[ 付近地図: 群馬県高崎市 ]・[ 高崎市:歴史・観光・見所 ]
山名八幡宮参道から見た随身門 山名八幡宮参道石畳み沿いの鳥居と石燈篭 山名八幡宮境内に安置されている「たちわりの石」 山名八幡宮境内に生える樹齢三百年以上の陰陽神木
山名八幡宮境内に建立されている山名一族ノ神馬(銅像) 山名八幡宮参道石段から見上げる拝殿と石垣 山名八幡宮拝殿と石燈篭とのぼり旗 山名八幡宮本殿と幣殿
独り言
一の鳥居からは昔、門前町があったからなのか境内まで結構距離があります。神門を潜った境内の下段には剣豪樋口定次縁の「たちわりの石」、山名氏の後裔が奉納した神馬の銅像、陰陽神木の巨木などの見所があります。


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