碓氷関所(安中市)概要: 古くは平安時代の昌泰2年(899)、碓氷峠(標高:約980m)へと続く碓氷坂に設置されたのが始まりと伝えられていてます。天正18年(1590)に徳川家康の命により箕輪城の城主である井伊直政が関長原(現在の横川関長)に関所を設置、江戸時代初期まではほぼ踏襲した形を取りましたが、中山道が整備されると元和9(1623年)に安中藩主井伊直勝が現在地に関所を遷しています。
当初は横川関所と呼ばれていましたが、宝永5年(1708)に碓氷関所に改称しています。特に3代将軍徳川家光が寛永12年(1635)に武家諸法度を発布し、参勤交代を義務化すると、多くの大名が中山道を利用するようになり碓氷関所は関東への入口の1つとして非常に重要視されました。
これは碓氷峠が信濃国(現在の長野県北佐久郡軽井沢町)と上野国(現在の群馬県安中市松井田町坂本)との国堺だけでなく、中部地方と関東地方の境界線でもあり、さらには中山道の難所として精神的な防衛ライン的な要素がありました。又、碓氷峠を超えるには道が限られおり、ここに関所を構える事は管理上も有利だったと思います。
参勤交代で中山道を利用する大名は加賀藩前田家をはじめ30数藩にのぼり、それに伴う「入鉄砲と出女」は明治2年(1869)に関所廃止令が発令されるまで厳しく管理されました。参勤交代で碓氷関所を利用する大名は関所を前後する坂本宿では本陣、横川では茶屋本陣で身支度を行い、正装した姿で関所を通過したとされ、大名にとっても特別な場所だった事が窺えます。
碓氷関所は安中藩(藩庁:安中城)と幕府が管理し、東門は安中藩、西門は幕府が所轄し、番頭2人、平番3人、同心5人、中間4人、箱番4人、女改め1人と通常の関所に比べても多く厳重に取り調べが行われていたようです。現在の碓氷関所は旧東門の門柱と門扉を利用し旧番所跡地に移築復元されたもので貴重な事から昭和30年(1955)に群馬県指定重要文化財に指定されています。
碓氷関所:上空画像
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