板鼻宿概要: 板鼻宿は江戸から14番目、高崎宿(高崎城の城下町)と安中宿との間の宿場町です。背後に碓氷川の渡し場がある為、板鼻宿に宿泊や休息で利用する人達が多く、洪水や増水があった場合は川止めとなりこの宿で逗留する事になりました。
その為、本陣と脇本陣が1軒ずつ設置されただけでなく旅籠が54軒と上州にある中山道の中では最大級の規模を誇り茶屋など関連店舗も軒を連ね大いに賑ったと言われています(※各軒数は天保14年の記録)。
又、榛名道(榛名神社の参詣道)との分岐点でもあり追分近くには文政13年(1830)に建立された道標があり「やはた みち」、「はるな くさつ いかほ 河原湯 かねこ 澤たり 志ぶ川 みち」と刻まれています。
歴史的には文久元年(1861)に皇女和宮が公武合体の為、14代将軍徳川家茂へ輿入れのため、中山道を使って京都から江戸へ下向途中、11月10日に板鼻宿本陣で宿泊しています。
本陣は代々木島家が世襲し往時は間口15.5間、奥行30間、敷地面積465坪に表門や式台付の格式の高い建物があったとされ現在でも宿泊に利用された本陣書院(桁行9.5間、梁間5.5間)が移築保存されて内部が皇女和宮資料館として一般公開されています。多くの建物の建て替えが進んでいますが、近年になって旧街道が主要幹線から外れた事で古い建物も点在し当時にの名残を伝えています。
板鼻陣屋:動画
【 ポイント 】板鼻宿の牛馬宿を担ったのが倉賀野城最後の城主となった金井淡路守秀景の後裔とされる金井忠兵衛家です。金井家の一族は中山道の高崎市から安中市にかけての宿場町で本陣や脇本陣を担い、当宿では脇本陣に次ぐ格式とされる牛馬宿を歴任しています。牛馬宿はその名の通り、宿場を利用した牛や馬の宿の事で一般的な町屋建築より間口が広く複数の牛馬が繋ぎとめる事が出来ました。金井忠兵衛が著名になったのは当地から現在の伊勢神宮(三重県伊勢市)、出雲大社(島根県出雲市)、長崎県までの3か月半に渡る旅行を「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」に記した事で、当時の宿の様子や食事の内容が判る一級資料となっています。現在ではありがちな行為ですが当時としてはかなり珍しい行為で先見の明があったのかもしれません。
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