【 概 要 】酒井忠挙は慶安元年(1648)、前橋藩4代藩主酒井忠清と梅光院(松平定綱の娘)との子供として生まれました。延宝9年(1681)忠清の隠居に伴い酒井家の家督を継ぎ、前橋藩5代藩主に就任しています。
その際、弟である酒井忠寛に2万石を分知し伊勢崎藩(藩庁:伊勢崎陣屋)を立藩させ、前橋藩は15万石から13万石となっています。貞享2年(1684)に奏者番兼寺社奉行に就任、元禄9年(1696)に溜間詰、元禄11年(1698)に大留守居となっています。宝永4年(1707)に2万石の加増を受けたものの、同年には隠居し嫡男である酒井忠相に家督を譲っています。
しかし、忠相が宝永5年(1708)に死去し、跡を継いだ酒井親愛は僅か13歳だった為、忠挙が後見人として前橋藩の執政を担っています。享保5年(1720)死去、享年73歳、龍海院に墓碑が建立されています。
酒井忠挙の前橋藩の事績は、慶安年間(1648〜1652年)に地名を「厩橋」から「前橋」に変更(酒井忠清が変更したとも云われています)、天和2年(1682)に家臣に対して五ヶ条の戒告を発布と領奉行が派遣した代官監督の強化、貞享元年(1684)に家臣で儒学者古市剛に命じて領内地誌である「前橋風土記」の編纂、貞享2年(1685)には飢饉で農民を救済する社倉法の制定しています。
元禄2年(1689)には大規模な検地を実施、同年には赤城温泉に湯小屋を造営、元禄4年(1691)には藩校である好古堂を前橋城の三の丸に開校、元禄13年(1700)には大胡に求知堂(藩校の地方番)の開校、元禄年間(1688〜1704年)には例幣使街道の宿場町である玉村宿(群馬県玉村町)に馬市を開設しています。
その他にも灌漑整備による新田開発や質素倹約、文武両道の奨励、前橋城の城下での市日の制定などを行い「聖賢に近く良将である」と評されています。
一方、元禄12年(1699)に発生した暴風や、宝永3年(1706)の大雨によって利根川が氾濫し前橋城が大破するなど天災が続き、領内が荒廃した事から宝永7年(1710)には国替を打診したものの失敗に終わっています。
酒井忠挙は社寺の保護も行い、寛文12年(1672)に上町八坂神社の社殿を造営、元禄8年(1695)には酒井家の菩提寺である龍海院の堂宇を造営、元禄10年(1697)には前橋城の裏鬼門鎮護として中国僧心越禅師を招いて少林山達磨寺(群馬県高崎市)を創建、元禄15年(1702)には前橋愛宕神社の社殿を再建しています。
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