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於菊稲荷神社(高崎市)概要: 於菊稲荷神社は群馬県高崎市新町に鎮座している神社です。於菊稲荷神社は何時頃開創されたのかは不詳ですが、戦国時代に小田原城の城主北条氏政によって中興されたと伝えられています。
戦国時代末期頃、当地は武田勝頼領となっていましたが、天正10年(1582)に織田・徳川連合軍の武田領侵攻により、勝頼は自刃に追い込まれ、上野国は織田領となりました。
上野国には織田家の家臣である滝川一益が厩橋城(現在の前橋城)に入り支配したものの、同年に本能寺の変が発生し織田信長が横死すると、後ろ盾を失った事から、小田原北条氏の軋轢を受けました。
同年6月に神流川を挟んで、北条氏政と滝川一益の両軍が対峙した際、氏政は日頃から守護神として信仰していた稲荷大明神に戦勝祈願をしたところ白いキツネが出現し、神流川の戦いで見事北条方が勝利に導いてくれました。
氏政は御神徳に感謝し、当地で稲荷神が祀られていた小祠だった当社に対し、壮麗な社殿を造営し報賽の誠を捧げたと伝えられています。
江戸時代に入り、中山道が開削されると、その宿場町である新町宿が開宿、多くの旅人や商人が新町宿を利用した為、それに伴い当社への参拝者も増えたと思われます。
新町宿が大いに賑わうと多くの妓楼が建ち並ぶようになり、当社はそこで働く娼妓達から篤く信仰されるようになりました。
新町宿の大黒屋の娼妓於菊は、越後国(現在の新潟県)出身で、生家の収入が少なく家族の生活が苦かった為、当所で奉公する事になりました。
於菊は、気立てが良く、働き者で、美人だった事から新町宿随一のとなり、毎日のように稲荷神社に参拝し、そこで遊んでいた子供達にお客から頂いた御菓子等を分け与えていました。
宝暦年間(1751〜1763年)、於菊は、風邪をこじらせ重病になると、医者からは不治の病と宣告されました。
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於菊は日頃信仰していた稲荷神社の境内に小屋を建て3年間、病気快癒の祈願をしていた所、夢枕に稲荷大明神が立ち今後人の為に尽くすことを条件に病気を治したそうです。
病気が治った於菊は不思議なことに霊力が付き、未来の事が予見出きるようになり、そのまま神社の巫女となり多くの人達の相談を受けるようになりました。
その話は世間に広がり、「困ったことは稲荷の於菊に聞けばよい」「於菊に聞いて稲荷にて参ればよい」と詠われるようになり、近隣だけでなく、遠方から多くの参拝者が訪れ、何時しか於菊稲荷神社と呼ばれるようになったと伝えられています。
於菊稲荷神社水屋は、文政6年(1823)に造営され、新町宿の住民達の浄財により奉納された建物で、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、桁行1間、梁間1間、外壁は柱のみの吹き放し。
手水鉢石は同じく文政9年(1826)に制作されたもので、「冰香」の筆跡は常陸国久慈郡袋田村(現在の茨城県久慈郡大子町)出身の江戸時代後期の漢詩人で書画にも精通し、当時の四大詩人に数えられた大窪詩仏の書とされ、意匠的にも優れている事から、名称「於菊稲荷神社水屋 附手水鉢石」として昭和55年(1980)に高崎市指定重要文化財に指定されています。
文政3年(1820)に奉納された絵馬は板面著色・額装で、題名は「村上義光奮戦記」、制作者は石川梅英、貴重な事から昭和55年(1980)に高崎市指定重要有形民俗文化財に指定されています。
奉納された時期は不詳ですが丸富楼の遊女が奉納した絵馬は板面著色・額装で、題名は「遊女参詣」、制作者は新町宿の絵師である狩野美信、貴重な事から昭和55年(1980)に高崎市指定重要有形民俗文化財に指定されています。
於菊が当社で病気平癒の祈願を行い、見事完治した事から、於菊稲荷神社は病気平癒や健康長寿に御利益があるとして信仰されています。
又、祭神の宇迦之御魂神は所謂「稲荷神」で、稲荷神は五穀豊穣・商売繁盛・家業繁栄の守護神である事から、それらに御利益があるとして多くの参拝者が訪れています。
祭神:宇迦之御魂神。
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