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子持神社(渋川市)概要: 子持神社は群馬県渋川市中郷に鎮座している神社です。子持神社の創建には諸説あり崇神天皇年代(紀元前97〜西暦30年)や嵯峨天皇年代(809〜823年)に勧請されたとも、又は日本武尊が東夷東征の際、戦勝祈願の為、霊地である当地を訪れ木花開夜姫命(主祭神)と七柱の大神(配祀:猿田彦大神・蛭子命・天鈿女命・大山祇神・大己貴命・手力雄命・須佐之男命)を勧請したと言われています。
【 子持神社と日本武尊 】-日本武尊が上野国(現在の群馬県)を通過した経路には碓井峠説と鳥居峠説があり、子持神社は鳥居峠の経路からさほど離れていない所に鎮座しています。
子持神社の創建には諸説あり、案内板には日本武尊が蝦夷征伐の為、密かに子持山に籠り、木花開耶姫命と七柱の大神達を待って、その加護により平定を完遂する事が出来たと記されています。
一方、「子持山宮記」によると日本武尊が子持山で戦勝祈願を行い、見事東国平定を完遂する事が出来た事から、感謝の意から猿田彦大神や天鈿女命など7柱を祭ったと記されています。
一方、「子持神社紀」によると、日本武尊が上野国府を訪れた際、豊城入彦命(上毛野君や下毛野君の始祖)の娘である上妻媛を妃として、子持山に木花開耶姫命を勧請し子宝祈願を行うと見事懐妊し御子である岩鼓王が生れたと記されています。
【 子持神社と神道集 】-一方、「神道集」の「上野国児持山之事」によると日本武尊については記されておらず、伊勢国度会郡に荒人神が出現し、上野国群馬郡白井保の児持山大明神となった事が記されています。
その話は阿野津の地頭である阿野権守保明は中々子宝に恵まれなかった事から伊勢神宮に祈願したところ、児守明神に祈願するようにとの御告げがありました。早速、保明が祈願すると見事、奥方が懐妊し姫君を出産したので、児持御前と名付け美しい女性に成長しました。
その後、奥方は死没し、保明が再婚すると、児持御前は継母の弟である加若次郎和理と恋仲となりました。その仲を恨んだ伊勢国司である在間中将基成が、保明と和理が謀反を企てていると関白に讒言した為、二人は下野国に流されました。
その後、保明は釈放されたものの、和理の罪は中々許されず、児持御前はお腹に新しい命が宿った事が判った為、その父親となる和理を救い出す事を決めました。
児持御前は縁戚筋の上野国目代である藤原成次に助けを求める為に旅立つと、道中で熱田大明神、諏訪大明神、宇都宮大明神の化身である3人の武士に出逢い、その助力により、見事加若次郎和理を牢屋から助け出す事に成功しました。
その後、児持御前は白井村の武部山に神として出現した為、武部山は児持山と改め児持御前は児持山明神として信仰されるようになったと記されています。
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平安時代に編纂されたと推定される「上野国神名帳」では従五位上に列していた事が記載されている事から、古くから格式が高く広く知られた神社だったと思われます。
又、奥之院(祭神:日本武尊)にある屏風岩など、子持山は風致に富む景観を有していた事から修験僧の修行の場としても発展し、平安時代後期には別当寺院となる大乗院が創建、明治時代に廃寺となりましたが境内には役行者(修験道の開祖)の石仏が安置されるなど、神仏習合の名残が見られます。
創建当初は子持山中腹にある現在の奥宮付近に鎮座し南北朝時代の貞治六年(1367)には社殿が再建されています。室町時代後期の永正10年(1513)には白井城の城主長尾氏が白井保子持山における乱妨狼藉を禁じる禁制を発布し、享禄年間(1528〜1532年)には関東管領の上杉憲顕が現在地に遷座し社殿を造営しています。
子持神社は歴代領主からも崇敬庇護され、永禄10年(1567)5月1日には武田信玄から神領を安堵され、天正10年(1582)2月26日には北条高広から渋川村入沢(現在の渋川市)の内、「拾弐面参貫五百文之所」の寄進を受け、北条家の祈祷所となっています。
江戸時代に入ると幕府から庇護を受け、明治維新まで20石の社領が安堵された事で社運も隆盛し(周辺地域で朱印地を安堵されたのは空恵寺18石、源空寺50石、雙林寺30石)、安永年間(1772〜1781年)には信者や氏子の浄財により社殿の造営が行われています。
子持神社は平安時代末期から神仏習合し別当寺院として大乗院(本山派:天台宗系)が祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され明治5年(1872)に郷社に列しました(境内や参道には石仏などが散見され神仏習合時代の名残が見られます)。
現在の子持神社の社殿は明治6年(1873)の火災で焼失後の昭和31年(1956)に再建されたもので拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、梁間2間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り。
本殿は三間社流造、銅板葺、外壁は真壁造板張り、高欄、浜縁、隔板付。神楽殿は木造平屋建て、寄棟、銅板葺、妻入り、間口2間、奥行き3間、外壁は正面3方が柱のみの吹き放し、例祭には神楽が奉納されます。比較的に新しい建物ですが境内の雰囲気によくあっています。
又、子持神社の参道にある万葉歌碑は江戸時代末期の1860年頃に郷土の文人小渕幻亜、佐藤不?が中心に建立されたもので万葉集で集録された「子持山 若楓の紅葉まで 寝もと吾は思ふ 汝はあどか思う」が刻まれています(この歌の作者は不詳)。万葉歌碑は貴重な事から昭和62年(1987)に渋川市指定史跡に指定されています。
子持神社は由緒や社号、祭神が木花開耶姫命である事から子授け・安産に御利益があるとして広く信仰されています。
祭神:木花開耶姫命。配祀:迩迩藝命、猿田彦大神、蛭子命、天鈿女命、大山祇神、大己貴命、手力雄命、須佐之男命。本山奥宮祭神:倭建命(日本武尊)。
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