木曽三社神社(渋川市)概要: 木曽三社神社は群馬県渋川市北橘町下箱田甲に境内を構えている神社です。木曽三社神社の創建は平安時代末期の元暦元年(1184)、木曽義仲の家臣今井、高梨氏等(今井・ 高梨・町田・小野沢・萩原・串渕・諸田等)が源義経の追討によりこの地へ逃れ、木曽義仲の崇敬社だった岡田神社(長野県松本市)、沙田神社(長野県松本市)、阿礼神社(長野県塩尻市)(いずれも延長5年:927年に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。
木曽三社神社に伝わる伝承によると、源範頼・義経との決戦である、粟津の戦いで木曽義仲は討死、家臣の一部は木曽まで落ち延びました。ある夜、家臣の1人高梨氏の霊夢に三社の祭神の化身が立ち、東国の霊地に祀って欲しいとの御告げあり、高梨氏は他の家臣達と相談した後に、御神体を箱に入れ東国に旅立ち当地まで下ってくると不思議な事に御神体が急に重くなり全く動かなくなりました。家臣達はこの場所こそが霊地と悟り木曽三社神社の社殿を造営し長く信仰したと伝えられています。
その後、木曽三社神社は歴代領主に崇敬庇護され関東管領の上杉憲顕は社領の寄進、上杉謙信(関東管領、越後国守護)は武運長久の祈願文の奉納、白井城主白井長尾氏の庇護、歴代前橋藩(藩庁:前橋城)の藩主からは社殿の造営や改修、社領の寄進が行われました。
木曽三社神社は古くから神仏習合し江戸時代までは滝の宮や木曽明神などと呼ばれしていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治29年(1896)には県社に列しました。御祭神は須佐之男命(元:阿礼神社祭神)、彦火火出見命・豊玉姫命(元:沙田神社祭神)、宇気母智神(元:岡田神社祭神)。
現在の木曽三社神社社殿(本殿:一間社流造、銅板葺き、外壁は真壁造り板張り、高欄、浜縁、隔て板付・拝殿:木造平屋建て、入母屋造り、銅瓦棒葺き、平入、桁行き3間半、梁間2間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り・幣殿:桁行き1間半、梁間2間、両下造)は江戸時代後期の寛政元年(1789)の火災で焼失後の寛政6年(1794)に再建したもので明治20年代に大改修されたものの当時の雰囲気を現在に伝えています。
木曽三社神社の境内全域は風致に冨み、窪んだ境内には"湧玉"と称する多くの湧水が湧き出て、明治時代には宮内省御用生洲に選定され昭和54年(1979)には群馬県環境保全地域(2.41ヘクタール)に指定されています。
又、境内には木曽三社神社の神官である高梨宣信が天保7年(1836)に建立した藍沢無満書の「枯枝に烏とまりけり秋の暮」と根井行雄が慶応4年(1868)に建立した「春なれや名もなき山の朝霞」の芭蕉句碑があります。上野国一宮貫前神社と同様に鳥居より社殿が低い位置にある「下り宮」形式の境内となっています。
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