杢ヶ橋関所(渋川市)概要: 杢ヶ橋関所は三国街道の吾妻川右岸にあり上州(上野国)では中山道の「碓氷関所」に次ぐ重要な関所とされ特に入鉄砲と出女には厳重に取調べが行われました。三国街道は佐渡で採掘された金や鉱物などを江戸まで運搬する重要な街道として五街道(奥州街道、中山道、東海道、日光街道、甲州街道)に次ぐ格式があり村松藩(新潟県五泉市)、与板藩(新潟県長岡市与板)、長岡藩(新潟県長岡市)が参勤交代で利用していました。江戸時代初期の元和6年(1620)、まずは番所として設置され寛永20年(1643)から杢ヶ橋関所として、吾妻川沿いに柵矢来(東西28間、南北23間)、中心部分には関屋と定番役宅(3軒)、門番小屋(2軒)が設けられました。
当初は安中藩(群馬県安中市・藩庁:安中城)の藩主井伊直勝が関所の管理運営を行い、正保2年(1645)には安中藩の水野元網、寛文7年(1667)には高崎藩(群馬県高崎市・藩庁:高崎城)の藩主安藤重博が警護を担当し、目付1人、与力2人(以上が2ヶ月で交代)が派遣され、定番3人(地元採用:長谷川家、田中家、砥柄家が代々世襲)、計6人体制で常時勤務し、以後は概ね高崎藩が杢ヶ橋関所の管理を担当しています。
現在でも杢ヶ橋関所の定番を世襲した田中家の役宅(木造2階建、入母屋、茅葺、平入、桁行6間、梁間3間半、外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ)が現存し関係資料と共に昭和26年(1951)に群馬県指定史跡に指定されています。
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