【 概 要 】安藤重信は弘治3年(1557)に安藤基能の子供として生まれました。若い頃から徳川家に従い、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従軍し第二次上田合戦に参陣しています。秀忠からの信任が厚く慶長16年(1611)に老中に昇進し、慶長17年(1612)に小見川藩(千葉県香取市)1万6千600石の藩主に就任しています。元和5年(1619)に大坂の陣の功により高崎藩に移封となり5万6千石に加増されています。
重信が高崎藩に入封するとすぐさま藩庁で藩主居館である高崎城の大改修が行われ、同時に城下町の町割りも行われました。領内の社寺の保護も行い、安藤家の菩提寺である良善寺を創建した際に「ハクモクレン」を手植えしたと伝わり現在は群馬県指定天然記念物に指定されています。
ただし、良善寺は元和7年(1621)に重信の菩提を弔う為に創建されたという由緒を持っている事から「ハクモクレン」の伝説は家督を継いだ安藤重長なのかも知れません(良善寺は安藤家の移封に伴い随行し現在は最終移封先であるが福島県いわき市に境内を構えています)。
高崎の総鎮守である高崎神社は入封した年に崇敬したとの由緒を持ち、高崎市石原町に鎮座している小祝神社も高崎城主代々は崇敬厚く、中でも安藤対馬守重信、間部越前守詮房等は特に崇敬せられたりとあります。高崎市下佐野町に鎮座している定家神社には重信が寄進したと伝わる青銅製の藤原定家座像が安置されています。高崎市上小塙町に鎮座している烏子稲荷神社には安藤対馬守が植えた紅葉が残され諸願成就の御神木として信仰の対象になっています。
重信は領内整備も積極的に行い「三ツ寺堤由来碑」によると慶安2年(1649)に用水路建設に協力し、唐沢川と中島川から取水する為に領内の数多くの農民を動員して乗附山から粘土を運び堤を築いたと伝えられています(重信は元和7年:1621年に死去している事から生前に計画し、死後に完成に至ったのかも知れません)。元和7年(1621)死去、享年65歳、戒名:栖岸院殿大誉良善大居士。
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