安藤重長

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安藤重長(高崎城:乾櫓)
【 概 要 】−安藤重長は慶長5年(1600)、本多正盛と高崎藩の藩主安藤重信の娘との子供として生まれました。重長は慶長14年(1609)に初代将軍徳川家康に謁見、元和元年(1615)に発生した大坂夏の陣では首級を挙げ、その功により伊賀守の官位と上野坂鼻2千石が与えられています。元和2年(1616)、正盛は日光東照宮の副奉行の職を担っていた際、同僚の山城宮内少輔忠久と揉め事を起こし相手を刀の鞘で打ち据え、それを恥じた山城宮内は自害、その責任から正盛も板橋城の城下で自刃しました。重長は母親と共に実家である安藤家に引き取られ重信の養子となっています。

元和7年(1621)、重信が死去すると安藤家の家督を継ぎ、高崎藩5万6千石の藩主に就任し、重信を安藤家の菩提寺である良善寺に埋葬しています。寛永元年(1624)に徳川家による大坂城築城の際には石垣を担当しています。寛永9年(1632)、3代将軍徳川家光と対立していた徳川忠長が改易となり安藤重長に預けられました。忠長は高崎城に軟禁、重長は度々忠長の赦免を哀訴しましたが認められず、遂に寛永10年(1633)阿部重次が使者となり自害させるように高崎城を訪れ重長に迫りました。重長は家光の書状が無い事を理由し固辞し最後の抵抗を見せるものの、重次はすぐさま江戸に戻り家光の書状を携えてきた為、忠長は全てを受け入れ自刃しています。忠長は高崎城の城下に境内を構えている大信寺に葬られた墓碑と霊廟が建立されました(霊廟は焼失)。

安藤重長は1万石の加増を受け6万6千石となり、寛永12年(1635)には寺社奉行に就任、さらに奏者番などの要職を歴任しています。正保3年(1646)には田口辰政から倉賀野城の三の丸に井戸が出現し八幡神が降臨したとの話を聞き、倉賀野八幡神社の社殿を造営しています。重信時代からの高崎城の築城や城下町の整備も引き続き行われ、現在残されている本丸乾(西北)櫓は安藤重長によって建てられたと推定されています。晩年は体を壊していたようで、伊香保温泉に湯治に訪れています。明暦3年(1657)死去、享年57歳。家督は孫である安藤重博が継いでいます。

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