安藤重博:概要

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概要・歴史・観光・見所
安藤重博(東陽山向雲寺)

【 概 要 】安藤重博は寛永17年(1640)、安藤重之と藤堂高次の娘との子供として生まれました。明暦3年(1657)、祖父で高崎藩の藩主である安藤重長が死去すると重之が既に死去していた事から重博が安藤家の家督を継ぎ高崎藩の藩主に就任しています。藩庁である高崎城は平屋の建物が多かったそうですが、延宝3年(1675)から築城工事を再開し重博の代で2層建に修築されています(諸説有)。東陽山向雲寺(群馬県高崎市)を現在地に遷し再興、清水寺(群馬県高崎市)に狩野常信作の「龍頭二観音現出ノ図」と「能楽吉野詣ノ図」の2面の絵馬(高崎市指定重要文化財)を奉納、寛文4年(1664)には奏者番に昇進しています。

寛文7年(1667)には三国街道の重要な関所である杢ヶ橋関所(群馬県渋川市金島)の管理を任され、これ以降、明治維新まで概ね高崎藩の管理となっています。延宝3年(1675)には高崎城の城下である本町(3日・8日)・田町(5日・10日)・新町(2日・7日)に六斎市を設定しています(元禄3年:1690年には田町に絹の専売権付与)。元禄4年(1691) には、烏川の筏河岸を建設し舟運を開いています。

延宝8年(1680)に真田信利が改易となり沼田藩が廃藩になると、天和元年(1681)に重博が沼田城の受け取り役上使となり、沼田城に派遣されています。天和2年(1682)に破却作業を終了し受け渡しの処理を終えると幕府に報告し高崎城に帰城しています。その間、平川村(利根村)から不作による困窮が訴えられ借米の願いが出されています。元禄8年(1695)に備中松山藩に6万5千石に加増移封となっています。元禄11(1698)死去、享年59歳、戒名:定恵院不嘔覚海。

高崎城:写真
安藤重博と縁がある高崎城 安藤重博と縁がある高崎城 安藤重博と縁がある高崎城 安藤重博と縁がある高崎城
清水寺:写真
安藤重博と縁がある清水寺 安藤重博と縁がある清水寺 安藤重博と縁がある清水寺 安藤重博と縁がある清水寺
沼田城:写真
安藤重博と縁の深い沼田城 安藤重博と縁の深い沼田城 安藤重博と縁の深い沼田城 安藤重博と縁の深い沼田城

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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