【 概 要 】藩祖となる前田利孝は加賀100万石を築いた前田利家の5男として生まれました(生母は明運院:山本氏の娘、於古和)。慶長4年(1599)、利家が死去すると生前、徳川家康と対立した事もあり前田家を継いだ利長に対し、家康暗殺を計画したとの嫌疑が掛けられます。利長は生母である芳春院の勧めもあり事実上徳川家に降伏し、芳春院と利孝は江戸に人質として軟禁となります。
利孝は継母にあたる芳春院から教育を受け、慶長19〜20年(1614〜1615年)の大坂の陣では徳川秀忠の軍に従軍し功を挙げた事で元和2年(1616)、上野国七日市に1万石が与えられ七日市藩(群馬県富岡市−七日市陣屋)を立藩しています。
加賀藩から見ると支藩的な扱いでしたが、七日市藩から見ると加賀藩から分知された訳ではなく、あくまで藩祖である利孝が幕府から与えられたものという立場で独立心が旺盛でした。ただし、石高が低かった為、度々加賀藩から支援を受け次第に従属するようになっています。
前田利孝から利昭まで12代七日市藩主を務め、概ね駿府城(静岡県静岡市)や大坂城(大阪府大阪市)の守備役を歴任、11代藩主利豁の代に天狗党が領内を通過し、天保13年(1842)には藩校となる成器館が開校、最後の藩主となった12代利昭は新政府側に与し会津城(福島県会津若松市)まで従軍しています。
前田家の領内菩提寺は長学寺(富岡市)で境内には歴代藩主の墓碑が建立されています。又、江戸の菩提寺は吉祥寺でここでも歴代藩主の墓碑が建立されています。七日市前田家は定府大名だった為、亡骸は吉祥寺の方に埋葬されたと思われます。
又、七日市陣屋の土塁の上には前田利孝の御宝塔が建立されています。又、陣屋の隣地に鎮座し前田家から篤く崇敬された蛇宮神社には前田利孝のものとされる「鯰尾の兜」が収められています。
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