伊香保御関所(口留番所)概要: 案内板によると「 伊香保温泉から吾妻郡へ向う出口に百姓関を設け、地元から関守を選び、警固に当て樵夫、草かり、農耕作人の外は一切関所手形がなければ通行ができませんでした。これは伊香保温泉に出入りする湯治客が対象で、江戸からの子宝の湯と喧伝されて婦人客が多かったので「入鉄砲に出女」の詮議がきびしく取締られ尼さん、少女、前髪立ちの若者まで不審の者を捕まえれば、ご褒美まで与える仕組みになっておりました。」とあります。
伊香保御関所は寛永8年(1631)に三国街道(中山道の高崎城下から北陸街道の寺泊港までの街道)の裏往還である伊香保街道(佐渡奉行街道の大久保宿から伊香保温泉までの街道)が開削されると幕府の命により設置され、当時の関所の建物は間口5間、梁間3間、萱葺だったとされます。
明治5年(1872)宿駅制度廃止令が発令されると伊香保御関所も前後して排されたと思われます。現在は資料館として外観が復元され敷地内には門柱の礎石や取り調べ石、お辞儀石が保存されています。
伊香保御関所:上空画像
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