総社神社(前橋市)概要: 総社神社は群馬県前橋市元総社町1丁目に鎮座している神社です。総社神社の創建は崇神天皇48年、豊城入彦命が経津主命の分霊を勧請し奉祀したのが始まりと伝えられています(豊城入彦命は第10代天皇である崇神天皇の皇子で上毛野君や下毛野君の始祖とされ、経津主命は軍神で香取神宮の祭神として知られています)。
安閑天皇元年(534)、上毛野君小熊王は社殿を改築し蒼海明神と改称、境内は古代上野国府に近く平安時代末期には上野国に鎮座する五百四十九社を勧請合祀し、総社明神と呼ばれるようになっています。
奈良時代の天平10年(738)に上野国総社になったとの説がありますが、当時の国司は直接国内の一ノ宮など格式の高い神社で祭祀を行う事が通例で、国府近くの神社に神々を勧請し総社とする習わしは平安時代末期になってからなので、上野国の場合も同様と推察されています。
又、総社神社には、当時の上野国に鎮座し格式の高い神社を列記した「上野国神名帳」を永仁6年(1298)に書写した「総社本」を所有しており、貴重な事から昭和49年(1974)に群馬県指定文化財に指定されています(上野国神名帳には「総社本」の他、一之宮貫前神社の「一宮本」、三夜沢赤城神社旧社家真隅田家のの「群書類従本」、鈴鹿連胤氏の「神社覈録」、奈佐勝皐氏の「奈佐本」などがあります)。
鎌倉時代に入り朝廷の権威が失墜すると上野国の祭祀は行われなくなったと推察されますが、総社神社を中心とする六十九町村の総鎮守として広く信仰されるようになり室町時代の長享2年(1488)には万里集九(室町時代の禅僧、歌人)も総社神社を参拝に訪れています。当初は現在の境内より数百m北西に鎮座していましたが永禄9年(1566)、北条家と武田家の兵火により多くの社殿、社宝、記録などが焼失し元亀年間(1570〜1573年)に現在地に遷座しています。
中世は領主である上杉家や長野家などに庇護されたと思われますが(境内一円は総社長野氏の居城とされる蒼海城跡)、上記の兵火により詳細は不詳、武田家が没落すると小田原北条家が庇護し、天正18年(1590)に豊臣勢により北条勢が一掃されると、豊臣家に従った前田利家や浅野長政が禁制を発布し総社神社の保護に努めています。
江戸時代に入ると幕府から庇護され慶安2年(1649)には3代将軍徳川家光より朱印地26石が安堵され、歴代将軍もこれに倣っています。明治時代神仏分離令を経て明治6年(1873)に県社に列しています。
現在の総社神社の本殿は永禄9年(1566)の武田勢による兵火で焼失後の慶長年間(1596〜1615年)に再建されたもので、三間社流造り、檜皮葺の建物で全体が極彩色で彩られた桃山時代の名残を見せる社殿として貴重な事から昭和38年(1963)に群馬県指定重要文化財に指定されています。
拝殿は天保14年(1843)に再建されたもので、木造平屋建て、入母屋、正面千鳥破風、銅板葺、桁行4間、梁間3間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り、細部に精緻な彫刻、棟梁は関谷出雲正平貞許、関谷出雲丞平貞義父子、江戸時代末期の神社社殿建築の遺構として貴重な事から平成5年(1993)に前橋市指定文化財に指定されています。
総社神社の御神体である上野国神名帳(上野国十四郡諸社神名帳)は五百四十九柱の神々を記したもので当時の歴史資料として貴重な存在で昭和49年(1974)に群馬県指定重要文化財に指定されています。
神楽殿は入母屋、銅板葺き、妻入、桁行2間、張間2間、外壁は3方吹き放し、木部朱塗り、例祭である3月15日に奉納される太々神楽(現在16座、以前は38座)は古式を伝える神事として貴重な事から昭和48年(1973)に前橋市指定無形民俗文化財に指定されています。祭神は磐筒男命、磐筒女命、経津主命、宇迦御魂命、須佐之男命。
総社神社の文化財
・ 本殿−慶長年間(1596〜1615年)−群馬県指定重要文化財
・ 上野国神名帳−弘治2年(書写)−群馬県指定重要文化財
・ 雲板−鎌倉時代初期(中国から渡来?)−群馬県指定重要文化財
・ 懸仏(弥勒菩薩)−天正4年−群馬県指定重要文化財
・ 懸仏(普賢菩薩)−天正17年−群馬県指定重要文化財
・ 拝殿−天保14年(1843)−前橋市指定文化財
・ 総社神社の筒粥置炭式−前橋市指定無形民俗文化財
・ 総社神社太々神楽−前橋市指定無形民俗文化財
・ 総社神社の社叢けやき(6本)−前橋市指定天然記念物
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