前橋市: 光厳寺

  群馬県:歴史・観光・見所前橋市:歴史・観光・見所>光厳寺

概要・歴史・観光・見所
光厳寺(前橋市)概要: 光厳寺の創建は慶長6年(1601)、総社藩初代藩主となった秋元長朝(上杉、北条、徳川と主君を変え、関ヶ原の戦いで東軍に組し上杉景勝降伏に尽力し総社領1万石が安堵された。)が徳蔵寺の亮應を招いて開山したのが始まりとされます。寺名は秋元の性と長朝の戒名(江月院殿巨岳元誉大居士)、母親(春)の戒名(光厳院殿心月等清大姉)より秋元山江月院光厳寺と名付けられ、秋元家歴代の菩提寺となりました(長朝の父親である秋元景朝と春の菩提寺は近隣にある元景寺で、境内には両者の墓碑が建立されています)。2代藩主秋元泰朝は、寛永10年(1633)に甲州谷村藩に1万8千石で移封となりましたが光厳寺は随行せずこの地に留まり歴代秋元家の菩提を弔っています。その後は幕府に庇護され、寛永3年(1626)に2代将軍秀忠より寺領30石が安堵され、さらに慶安2年(1649)には3代将軍家光より16石が加増され合計46石の朱印地を賜りこの地域の天台宗の修業寺として寺運が隆盛します。

光厳寺は江戸時代中は大きな火事がなかったようで境内には多くの古建築物があり本堂(文政3年:1820年・入母屋、桟瓦葺、唐破風玄関屋根)、御廟所(文化9年:1812年・入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、桁行3間、梁間2間、軒唐破風1間向拝付)、庫裏(文化10年:1813・入母屋、桟瓦葺、妻入)、長屋門(天明5年:1785年・入母屋、桟瓦葺)、楼門(文化年間:1804〜1818年・入母屋、銅瓦棒葺、三間一戸、正面唐破風)、薬師堂(宝形造、桟瓦葺、方1.5間、向拝付)・元三大師堂(寄棟、桟瓦葺、桁行3間、1間向拝付)・鐘楼(明和9年:1772年・入母屋、銅板葺、袴腰付)などが軒を連ねています。中でも薬医門は江戸時代初期に総社城の城門として建てられ、廃城になった際、移築したと推定される貴重な建物で昭和50年(1975)に前橋市指定重要文化財に指定されています。又、境内に隣接する宝塔山古墳(国指定史跡)頂上には歴代秋元家の墓が建立されています。群馬郡三十三観音霊場第22番札所。前橋四公御廟所六寺社。山号:秋元山。宗派:天台宗。本尊:釈迦牟尼如来。

【 光厳寺菩提者:秋元家 】-秋元家は嘉禄年間(1225〜1226年)、宇都宮頼綱の子供である泰業が上総国周淮郡秋元荘を賜り、地名から秋元姓を名乗ったのが始まりとされます。何時頃から深谷上杉家に仕えるようになり秋元景朝の代には深谷上杉氏四天王の1人として台頭し正室には当事の関東管領上杉憲政の養女(春:光厳院)を迎えています。深谷上杉家が小田原北条家に破れると北条家に従いますが天正18年(1590)の小田原の役では長朝(景朝の子)は豊臣家に与し、さらに徳川家康の家臣となり文禄元年(1592)に上野国碓氷郡中野谷領500石が与えられています。その後は徳川家譜代の家臣として尽力し慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として行動、戦後は上杉景勝投降に功があり慶長6年(1601)には旧領である総社領(群馬県前橋市)1万石が与えられ総社藩を立藩しています。

秋元長朝は行政的にも優れ総社城の築城や城下町の町割だけでなく用水を整備する事で新田開発を積極的に行ない実石で2万7千石になったとされ領民からも慕われました。泰朝は徳川家康の側近として重用され1万5千石に加増、家康の死後は遺骸を久能山(静岡県静岡市)から日光(栃木県日光市)への改葬を取り仕切り、日光東照宮奥之院造営にも尽力し、寛永10年(1633)に谷村藩(山梨県都留市)に1万8千石で移封となっています。秋元喬知は老中職など幕府の要職を歴任した事で度々石高加増が行われ正徳元年(1711)には5万石で川越藩に移封、涼朝も老中などを歴任し明和4年(1767)に6万石で山形藩(山形県山形市)に移封、弘化2年(1845)には志朝が6万3千石で館林藩(群馬県館林市)に移封となっています。秋元家は度々移転しましたが菩提寺は光厳寺(前橋市)と変らず、境内には歴代当主の墓碑が建立され前橋市指定史跡に指定されています(光厳寺の正面にある宝塔山古墳が墓域)。

光厳寺の文化財
・ 力田遺愛碑-安永5年-当地を開発した長朝を讃え領民が建立-栃木県指定史跡
・ 東覚寺層塔-室町中期-七重多層塔、安山岩、高413p-前橋市指定文化財
・ 薬医門-江戸時代初期-切妻、銅板葺-前橋市指定重要文化財
・ 打敷・油単並びに幡-前橋市指定重要文化財
・ 石幢-明応4年-安山岩製、高さ1.58m-前橋市指定重要文化財
・ 石山寺蒔絵机-前橋市指定重要文化財
・ 三具足 一具-前橋市指定重要文化財
・ 輪口瓜形釜 伝芦屋(一口 附:極め書 三通)-前橋市指定重要文化財
・ 秋元氏歴代墓地-前橋市指定史跡

光厳寺:写真

光厳寺
[ 付近地図: 群馬県前橋市 ]・[ 前橋市:歴史・観光・見所 ]
光厳寺 光厳寺 光厳寺 光厳寺
光厳寺 光厳寺 光厳寺 光厳寺

光厳寺:歴史的建造物

楼門楼門
・光厳寺楼門は江戸時代後期の文化年間(1804〜1818年)に造営されたもので、入母屋、銅瓦棒葺、正面唐破風、三間一戸、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、上層部には三連の花頭窓、高欄が無いなど楼門建築としては特異な形式で、正面には「秋元山」の山号額が掲げられています。又、門扉の軸線上には秋元家の霊廟が続いている為、霊廟建築の一環として建てられたのかも知れません。
薬医門薬医門
・薬医門は江戸時代初期に造営されたもので、切妻、銅板葺、一間一戸、前橋市指定重要文化財。伝承によると開基者秋元家の居城である総社城の城門として建てられたものの、秋元家が寛永10年(1633)に甲斐谷村藩に移封になると廃城となり、光厳寺に遷されたと伝えられています。
長屋門長屋門
・長屋門は江戸時代後期の天明5年(1785)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押え。通用門として利用されていようです。
霊廟霊廟
・旧総社藩の藩主秋元家の御霊廟として文化9年(1812)に建てられたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、桁行3間、梁間2間、1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り。秋元家は甲斐谷村藩、川越藩、山形藩、館林藩と移封を繰り返したものの、菩提寺は光厳寺で変わりませんでした。境内前面に築かれた宝塔山古墳(国指定史跡)の中腹には秋元氏歴代墓地(前橋市指定史跡)が建立されています。
本堂本堂
・光厳寺本堂は江戸時代後期の文政3年(1820)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入、唐破風玄関屋根、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、内部には本尊となる釈迦牟尼如来像が安置されています。
庫裏庫裏
・光厳寺庫裏は江戸時代後期の文化10年(1813)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、妻入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。
鐘楼鐘楼
・光厳寺鐘楼は江戸時代中期の明和9年(1772)に造営されたもので、入母屋、銅板葺、袴腰付、上層部は柱のみの吹き放し。


※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「群馬県:歴史・観光・見所」は「群馬県の歴史」、「郷土資料辞典−群馬県」、「日本の城下町−関東(一)」、「城郭と城下町−関東」、「パンフレット」、「案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。