産泰神社(前橋市)概要: 産泰神社は群馬県前橋市下大屋町に鎮座している神社です。産泰神社の創建は不詳ですが、伝承によると日本武尊(72〜113年)が東夷東征を完遂し凱旋で当地を訪れた際、霊地と悟り御霊を勧請し戦勝祈願したとも、履中元年(427)に勧請されたとも云われる古社です。
【 産泰神社と日本武尊 】−日本武尊の群馬県内の凱旋経路は鳥居峠説と碓氷峠説の2説あり、その起点となる前橋市には比較的、伝承や史跡が多く、この産泰神社もその一つとされます。しかし、由来は戦国時代に兵火で社殿が焼失した際に類焼した為、印象的な挿話が無く、単に東国を平定した後に当地を訪れた際に勧請したとの伝承のみが伝わっています。そもそも、日本武尊の存在自体が曖昧で、東国に東征したのかも曖昧、凱旋経路も曖昧な為、検証に価すのかも曖昧です(日本武尊は3〜4世紀の人物とも言われています)。
群馬県には2つ経路がありますが、さらに言えば、武蔵国(東京都・埼玉県)から上野国(群馬県)→信濃国(長野県)→美濃国(岐阜県)→尾張国(愛知県)という経路と武蔵国→甲斐国(山梨県)→以下同じ、という経路が存在します。確かに大軍勢であれば、軍を幾つも分けて進軍するのは特に矛盾はありませんが、それぞれに日本武尊の伝説が残っています。
【 産泰神社と上毛野国造 】−一方、古墳時代になると、権力者の地位が確立し、上野国では上毛野国造が大きな勢力となり当国に君臨し特に本拠地だった前橋市には前橋天神山古墳など巨大な古墳が築造されるようになります。産泰神社境内周辺にも大黒塚古墳(古墳時代後期:前方後円墳・全長46m、後円部直径26m、高さ3.5m、前方部幅17m、高さ3m・頂上部が産泰神社の境内となっています)、伊勢山古墳(6世紀末:前方後円墳・全長67m、後円部直径42m、高さ5.5m、前方部幅47.5m、高さ5m・頂上部が稲荷神社の境内となっています)、大室古墳群(国指定史跡:前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳・小二子古墳・内堀1号墳・内堀4号墳)などの古墳が点在している事から古墳時代には大きな勢力を持った豪族が存在し、その豪族の祖神を祭る祭祀施設だったとも考えられます。
産泰神社の境内も古墳として利用されていた事から、上毛野国造とも強い繋がりがあった事が窺えます(周囲には巨大な前方後円墳で構成されている大室古墳群があります)。そして、上野国造の祖神で赤城神社の祭神である豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子)の娘、又は曾孫とされる上妻媛命は日本武尊の妃という関係だった事から、赤城山信仰と日本武尊が結びつきます。
そして、群馬県渋川市の子持山に鎮座する子持神社では日本武尊は上妻媛命との間の子宝祈願を行う為に木花開耶姫命を勧請したとの伝承が残され、産泰神社の祭神も同じく木花佐久夜毘売命が祭られている事から、同じような由来を持っていた可能性が高いと思われます。
【 産泰神社と赤城信仰 】−実際、一つ一つ検証しても余り意味がないと思いますが、産泰神社について少し検討としてみます。まず境内ですが、実は赤城山(標高1827.6m・古くから信仰の対象になっていた霊山)の火山活動によって噴出された溶岩が当地まで流れ固まり小さな丘が形成され、その上に鎮座しています。現在も本殿の背後にはごつごつとした溶岩が重なりあった巨石群(産泰明神山)が残され、神が降臨するという磐座だったという雰囲気を感じ取る事が出来ます。
古代の人達はこのような景観を信仰の対象する例は多く産泰神社の前身もこうした素朴な自然崇拝が原型だったと推察され、同じく、この景観を作り出したのは赤城山である事から産泰神社も赤城山信仰から発生した神社の1つだったと思われます。又、旧参道から赤城山が望める事から以前は赤城神社(延喜式神名帳では名神大社、上野国二宮)の里宮だったとも言われ、実際、産泰神社から略真北方向の赤城山中腹には赤城神社の本社とされる三夜沢赤城神社が鎮座している事からも、関係性が窺えます(赤城神社の本社は三夜沢赤城神社の他に二宮赤城神社、大洞赤城神社がそれぞれ自称しています )。
又、一説には赤城山の火口湖の小沼を神格化した小沼神の本地仏である虚空蔵菩薩像、大沼を神格化した大沼神の本地仏である千手観音像、赤城山を構成する頂部の一つ地蔵岳を体現する地蔵菩薩像の三体が安置されていた事から「さんたい」の社号の由来になったとも云われています。
確かに、上記の説だと社号の「産泰」の由来にはなりますが、何故、木花佐久夜毘売命が祭られているのかは不明で、埼玉県内にも産泰神社が複数社鎮座し、多くが木花佐久夜毘売命を祭り安産や子授に御利益があるとして信仰されている事からも説得力に欠ける印象を受けます。
私論ですが、産泰神社は赤城山の山頂か「櫃石」の遥拝施設、又は里宮として創建され、その後に現在の群馬県前橋市二之宮町に遷座し二宮赤城神社になったと思います。残された当地は赤城山信仰では無く、境内の巨石の信仰する素朴な自然崇拝に移行し、さらに、修験道が盛んになると巨石が重なる事で出来た隧道を女性の「産道」と見立て「胎内くぐり」が行われるようになり、「産道」の「産」と「胎内くぐり」の「胎」から「さんたい」の文字が生まれたと思いますが、どうでしょうか?。
やがて、「産泰」の漢字があてがわれると、安産、子授に御利益があるとして信仰されるようになり、それに相応しい木花佐久夜毘売命が勧請され神社として成立したのではないでしょうか。この信仰は周辺にも伝播し、産泰神社を社号として掲げ、木花佐久夜毘売命を祭る神社が各地に創建されるようになったのかも知れません。
【 前橋藩との関係 】−産泰神社は戦国時代の北条氏の兵火により多くの社殿、社宝、記録などが焼失し衰微し、これ以前の由緒も曖昧になりますが、江戸時代には再興され、歴代前橋藩(藩庁:前橋城)の藩主から崇敬庇護されました。特に藩主酒井家から崇敬され、酒井雅楽頭は産泰神社に奥方の安産を祈願し、見事念願成就すると社殿の造営や社領の寄進などが行われ、領内鎮護を願って社殿の向きを前橋城方向に替えたそうです。
産泰神社の主祭神は木花佐久夜毘売命(オオヤマツミの娘・ニニギノミコトの妻:一夜にして妊娠し海幸彦、山幸彦を産んだ為、妻守護神、安産神、子育神とされています。又、富士山を御神体とする浅間大社でも祀られ火山鎮護の神でもあります。)で安産と子育てに御利益がある神として広く信仰され以前は底の抜けた柄杓を奉納する慣わしがあったそうです(底が抜けていると水がよく通る事から、安産を暗示させるという意味だそうです)。
【 社殿・境内 】−現在の産泰神社本殿は宝暦13年(1763)建築、一間社入母屋造、銅板葺、妻入、蝦虹梁、木鼻、蟇股、壁面、隔板などに精緻な彫刻が施され、木部朱塗り。幣殿は文化9年(1812)建築、両下造、銅板葺、桁行1間、梁間2間、木鼻、蟇股、壁面などに精緻な彫刻が施されています。拝殿は文化9年(1812)建築、入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、張間2間、正面1間唐破風向拝付き、向拝、木鼻、蝦虹梁、懸魚、欄間部に精緻な彫刻、外壁は真壁造り板張り、木部朱塗り。
随神門は天保4年(1833)建築、入母屋(入口上部軒唐破風)、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、外壁は真壁造り板張り。産泰神社社殿は18世紀中頃から19世紀前期にかけて建てられたもので建築年が明確で意匠にも優れている事から本殿、幣殿、拝殿、神社山門(随神門)が平成6年(1994)に群馬県指定重要文化財に指定されています。又、産泰神社例祭に奉納される太々神楽が昭和48年(1973)に前橋市指定無形文化財に、社宝である平安時代制作の八稜鏡(現在は群馬県立歴史博物館が管理)は昭和49年(1974)に前橋市指定重要文化財にそれぞれ指定されています。
【 産泰神社の文化財 】
・ 本殿-宝暦13年-一間社、入母屋造、銅板葺-群馬県指定文化財
・ 拝殿-文化9年-入母屋造、銅板葺、3×2間、唐破風向拝-群馬県指定
・ 幣殿-文化9年-両下造、銅板葺、1×2間-群馬県指定文化財
・ 神門-天保4年-三間一戸、八脚単層門、入母屋、銅板葺、軒唐破風-県指定
・ 境内-境内地全域−4294u−群馬県指定重要文化財
・ 八稜鏡-平安時代-瑞花双鳳鏡、径16.6cm-前橋市指定重要文化財
・ 太々神楽(23座)-明和元年以前、4月17・18日-前橋市指定無形文化財
産泰神社:上空画像
八脚門を簡単に説明した動画
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