【 概 要 】秋元景朝は室町時代後期の大永5年(1525)に秋元政朝の子供として生まれました。武蔵深谷城主である上杉憲賢、憲盛に仕えた深谷上杉家の有力武将で、正室には当事の関東管領上杉憲政の養女(春:光厳院殿心月等清大姉)に迎えた事で地位を確立しました。
秋元氏は上総 国周淮郡秋元荘(千葉県君津市)を本貫として氏族でしたが、複数の一族が分派し戦国時代の秋元景朝の血族は小糸城(千葉県君津市清和市場字根古屋)を本拠としていたようです。景朝は天文10年(1541)に上杉憲賢の意向を汲み武州榛澤郡上野原(現在の埼玉県深谷市)の深谷城の城代として赴任しています。
ただし、小糸城は秋元家宗家の居城で、分家筋の秋元景朝は関東管領山内上杉家の家臣として上野国を拠点とし、深谷上杉家の附家老として上野国から深谷城に入ったという説もあります。この説が正しければ、上杉憲政の養女を正室とした事や、上野国から深谷に入ったという記録、天文10年(1541)以降も小糸城に秋元氏が居していた事が説明出来ます。
その後は岡谷加賀守清英、井草左衛門尉、上原出羽守と共に「深谷上杉氏四天王」、岡谷加賀守清英、井草左衛門尉と共に「爪牙の臣」、「深谷の三宿老」と称され重きを成しました。永禄元年(1558)頃に上杉憲政が越後に逃れた際には追従せず元亀3年(1572)、甲斐武田氏、小田原北条氏連合軍が深谷城を強襲した際には主力の一角として応戦したと見られ天正元年(1575)の上杉憲盛と小田原北条家との和睦の際には北条家への返状に連署として秋元景朝の名が連ねています。
憲盛の跡を継いだ上杉氏憲は天正6年(1578)に北条氏政の養女を正室に迎えた事で北条家に従属するようになり、天正15年(1587)には景朝に上野国植野勝山の地が与えられています。天正15年(1587)に死去、享年63歳、戒名は「春光院殿気山元景大居士」。
息子である秋元長朝は天正18年(1590)の小田原の役で小田原北条方に与し、一時没落しましたが、徳川家康の重臣である井伊直政の推挙を受けて、徳川家の家臣として復権しました。
慶長5年(1600)の関が原の戦いで東軍(徳川方)として行動した為、慶長6年(1601)譜代大名として旧領である総社領1万石が与えられ総社藩(群馬県前橋市総社町・藩庁:総社城)を立藩しています。元景寺(前橋市)は秋元景朝の菩提寺で境内には景朝夫妻の墓碑が建立され前橋市指定史跡に指定されています。
又、元景寺には秋元長朝が大坂の陣で連れ帰ったという淀君のものと伝わる墓碑が建立されています。
|