【 概 要 】東梅院は松平康親(松井松平家の祖)と正室である江原丹波守政秀の女のとの間に生まれた女児で腹違いの兄妹として松平康次(徳川家康の落胤とされ家康の「康」の字を代々世襲している。後に篠山藩5万石)、忠喬がいました。名前は「花」で天正10年(1582)に徳川家康の養女となり天正12年(1584)に井伊直政(徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑)の正室として嫁いでいます。直政との間には直勝をもうけ、慶長7年(1602)に直政が死去すると東梅院は出家して唐梅院に改称、直勝が彦根藩(滋賀県彦根市)井伊家18万石を継ぎましたが、病弱だった事から廃嫡され腹違いの弟である直孝が藩主になると、直勝が藩主だった事も記録上から抹消されています。
元和元年(1615)、直勝は安中藩(群馬県安中市)3万石が与えられ唐梅院も直勝に従い安中城に入り、寛永16年(1639)に安中城内で死去、遺骸は大泉寺(安中市)に葬られました。戒名は唐梅院殿台誉崇玉大姉。
隆崇院は通称「お岩の方」と呼ばれ直勝の側室となり元和4年(1618)に群馬郡室田村の代官新佐衛門宅で直好(安中藩2代藩主)を産んでいます。隆崇院は正保元年(1644)に安中城で死去し遺骸は大泉寺に葬られました。戒名は隆崇院殿念誉寿専大姉。大泉寺の境内には井伊直政正室(唐梅院)の墓・直好生母(隆崇院)の墓が残され安中市指定史跡に指定されています。
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