菅沼定利:概要

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概要・歴史・観光・見所
菅沼定利(吉井山隆興院玄太寺)

【 概 要 】菅沼定利は菅沼家の惣領家であった田峯菅沼家の血脈である定直又は定吉の子供として生まれましたが、田峯菅沼家が武田家に与した事で離反し徳川家に仕えました。当時、一族である野田菅沼氏系の菅沼定盈は徳川家康に与し野田城(愛知県新城市豊島)攻防戦や長篠の戦いに参加し功を挙げ一定の信頼を得ていた事から定利も定盈に頼ったものと思われます。天正10年(1582)、織田信長の甲斐侵攻により武田家が滅ぶと田峯菅沼家宗家も没落した為、定利は徳川家康の後ろ盾を得て宗家に抜擢されます。本能寺の変の際には家康と共に堺見物に同行したとも云われ、それが事実とすれば神君伊賀越も共にした可能性があります。

天正11年(1583)、定利は家康の命により南信濃の郡代に就任する共に知久平城に入り、天正12年(1584)に知久氏を事実上の滅亡に追い込んでいます(知久氏の没落の理由は不詳ですが、知久頼氏は徳川家に与していたものの、その後、捕縛又は出頭により浜松城に赴き自刃しています)。菅沼定利は天正12年(1584)に発生した小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉(豊臣秀吉)に転じた木曽義昌の家臣である山村良勝が籠る妻籠城の攻略戦に参戦しています。

領内経営にも尽力し伊那郡普済寺に対して寺領の安堵状を、小河内の渕井氏に対して所領安堵状を発布しています。天正14年(1586)に下条氏の没落に伴い下伊那の要衝である飯田城(長野県飯田市)の城主に抜擢、天正15年(1587)には下条氏(第一次上田合戦で陣小屋を焼失する不手際により飯田城に拘禁)、天正16年(1588)には松岡氏を改易させています(松岡貞利が徳川方の高遠城を攻めた事を座光寺為時が菅沼定利に密告し徳川方が捕縛)。菅沼定利は当地域の徳川家に従った国人領主達を統率する立場であると同時に越後の上杉景勝側の折衝役でもあり徳川家からの信任が厚かったと思われます。

天正18年(1590)、家康の関東移封に伴い定利は上野国吉井領2万石が与えられ諸侯に列し、吉井に赴く際には長野県下伊那郡大鹿村鹿塩西にある折山塩の産地を見学し、樫の木(大鹿村指定天然記念物)を植樹したとの伝説が残されています。菅沼定利が吉井領に着任すると、後に菩提寺となる吉井山隆興院玄太寺(高崎市)吉井八幡宮(高崎市)の創建、吉井城の築城、町割り、市の開催など城下町を整備し、天正20年(1592)には検地を行い領内の基盤の基礎を固めました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍し上田城(長野県上田市)攻略戦にも参加しています。菅沼定利は慶長7年(1602)死去、戒名:「隆興院殿廣山玄太大居士」。菩提は城下にある仁叟寺に葬られましたが、150年後に野田菅沼氏系の後裔である菅沼定用によって玄太寺境内に移されています(定利には子供がいなかった為、奥平信昌の3男である忠政を養子に迎えましたが、奥平家でも長男家昌は別家を興し、2男が早世した為に嫡子がいなくなり、忠政が奥平家を継ぎ、田峯菅沼家は断絶、吉井藩も廃藩となりました)。

吉井山隆興院玄太寺:写真
菅沼定利と縁のある玄太寺(厄除観音) 菅沼定利と縁のある玄太寺(厄除観音) 菅沼定利と縁のある玄太寺(厄除観音) 菅沼定利と縁のある玄太寺(厄除観音)
天祐山公田院仁叟寺:写真
菅沼定利と縁のある仁叟寺 菅沼定利と縁のある仁叟寺 菅沼定利と縁のある仁叟寺 菅沼定利と縁のある仁叟寺
吉井八幡宮:写真
菅沼定利と縁のある吉井八幡宮 菅沼定利と縁のある吉井八幡宮 菅沼定利と縁のある吉井八幡宮 菅沼定利と縁のある吉井八幡宮

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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